太平道と室町時代
夷陵の戦いで大勝した孫権は、魏に臣従する必要もなくなったため、新しく黄武の元号を立てて魏から独立した。大敗した劉備は翌年の223年に病死し、その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が政治・軍事の全てを司るようになった。以降、蜀漢と呉は再び和睦して魏に対抗するようになる。222年から何度か魏の曹丕による侵攻を受けた。222年には、呉は3方向から魏に攻められ苦戦したが、朱桓が曹仁を破り、疫病が流行したため、魏軍は退却した。224年に、魏は再び攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に偽の城壁を築いていたため、これに驚いた魏は戦わずして退却した。
現在の杜甫の詩人としての地位は必ずしも、没後短期間で確立したものでなく、数百年後の北宋初期でさえ、当時一世を風靡した西崑派の指導者であった楊億は杜甫のことを「村夫子」とよんで嫌っていたという。高島俊男『李白と杜甫』では、杜甫は律詩はよいが絶句はうまくない、というよりも杜甫の絶句は「律詩の一部分と考えればよくできている」が、「それを四行だけ取り出して『はい、絶句です』といわれても困る」という類だという。文庫版での『杜甫詩選』は、岩波文庫で黒川洋一編訳が、同じ編著で入門書が『杜甫 中国の古典』、角川ソフィア文庫<ビギナーズ・クラシックス>にある。また選書版で、石川忠久『漢詩をよむ 杜甫一〇〇選』もある。なお集大成の『杜詩』が近年復刊された。
その後大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。元和元年、家康は禁中並公家諸法度を制定して、朝幕関係を規定した。また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下を安泰なものとした。元和2年1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣の位を贈られた。 4月17日の巳の刻に駿府城において薨去した。享年75。
各種産業の具体的内容について。農業について、その経営形態については前述の佃戸制研究がそれに当たる。また従来の佃戸制研究に対して当時の農業生産の主たる地位を占めていたのは地主・佃戸関係ではなく、小規模自小作農と国家との関係であるという指摘をする中国史研究会『中国史像の再構成-国家と農民』もある。古林1987・1995には漁業・屠殺・茶・酒・金属加工・など各種産業の具体的事例に踏み入って解説を加えている。塩については塩の専売制の詳細な通史である佐伯1987が、茶に付いては本文で挙げた佐伯1956・1958と前述の古林1987がある、酒専売に付いては前述の古林1987を参照。遼との関係については田村実造『中国征服王朝の研究』上巻が基本。