社会・経済と科学技術

腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「行中書省」という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で行われている地方区分としての省は、元代の行省制度を起源とする。行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家のモンゴル皇帝政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路・州・県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、ダルガチが負った。しかし、元の直轄支配地域の地方では、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じように季節移動を行う直轄所領を持ち、それぞれの所領はチンギス以来の権利によって貴族が所有する財産とみなされていたため、皇帝の直接支配を受けず、まったくの自治に委ねられていた。しかもひとつひとつの位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状にちりばめられた領民・領地をもっており、皇帝の直接所有する領土・領民は、元の全領域から王族・貴族の位下領・投下領を除いた部分にすぎなかった。定住地帯においては、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任命したので、彼らは領主からの代官として働き、皇帝の直接の支配権が及ばないその支配がその位下領・投下領の含まれる地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。

代々土地の豪族となって繁栄した一族に生まれた。蜀漢に仕えた習禎の子孫。若くして志を持ち、博学で、文筆により著名だった。荊州刺史桓温が招聘して従事とし、江夏相の袁喬が彼の能力を認めて桓温に推薦したので、西曹主簿に転任し、厚遇されるようになった。その後、別駕に昇進した。桓温が出征する際には、留守を守る事もあれば従軍することもあり、任せられた職はどれも任に堪え、要職を預かって実績があり、議論に長けていて桓温も能力を認めて厚遇した。しかし、都へ使いに出た際に会稽王司馬昱も彼を重んじたが、桓温が「相王は誰に似た人物か」と習鑿歯に尋ねたところ、「未だあのような方は見たことがありません」と答えたので、桓温は怒って戸曹参軍に左遷し、後に滎陽太守に出した。桓温は当時簒奪の野望を抱いていたが、郡に居た習鑿歯は『漢晋春秋』54巻を著してそれを正そうとした。『漢晋春秋』は後漢の光武帝から西晋の愍帝までの歴史書であるが、三国時代については、魏は後漢から禅譲を受け晋に禅譲しているとはいっても簒奪した逆臣であり、司馬昭が蜀漢を平定して初めて漢が滅び晋が興ったものとし、天意は勢力があるからといって強奪できるものではないと主張した。

劉備は前漢の景帝の第8子、中山靖王劉勝の末裔とされる。劉勝は劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として爵位を賜った。だが、紀元前112年の年始頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。「先主伝」注に引く『典略』では劉備は臨邑侯の庶流と記されている。劉備は背丈が七尺五寸、腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う。

19世紀に入ると産業革命が進む欧米と中国との力関係が逆転し、特にナポレオン戦争後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として中国侵略が開始され、後発のロシアや日本もこれに加わった。その結果、アヘン戦争、第2次アヘン戦争によって不平等条約を結ばされ、外国商品の流入によって勃興しつつあった工場制手工業に大きな被害をうけた。さらに清仏戦争、日清戦争、と相次ぐ戦争によって次つぎと冊封国を失い、冊封体制に基づく東アジアの伝統的な国際秩序は崩れた。また義和団の乱が起こり、列強による勢力分割や主要な港湾の租借がおこなわれ、半植民地化が進んだ。皇帝の姓を愛新覚羅という。本来の満洲語ではAisin gioroと発音し、 アイシンは「金」、ギョロは「氏」ということで、即ち「金氏」を意味する。

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