思想・宗教と思想・宗教

逃げた皇帝に代わって、高歓は禅譲のための傀儡として534年に孝静帝を擁立、西の宇文泰も孝武帝を殺して535年に文帝を擁立した。この534年をもって北魏が滅亡し、東魏と西魏に分裂したと見る。といっても東西の魏はそれぞれの実力者が帝位に着くための準備段階でしかない。東魏では高歓が全権を掌握した後に、西魏に対して何度か攻撃を仕掛けるが、芳しい結果は得られなかった。高歓は547年に死去し、その後を息子の高澄が継ぐ。この時期に河南の長官であった侯景は自らの軍事力が高澄に警戒されている事を知り、東魏から離脱して南の梁に帰順した。これを接収するために梁の武帝は大軍を送るが、東魏軍に大敗して河南は東魏に戻る。この後、侯景による挙兵が起きて梁は大混乱に陥ることになる。高澄の死後、550年に高澄の弟である高洋が継ぎ、魏帝より禅譲を受けて斉を建てた。南朝の斉と区別して北斉と呼ばれる。

漢中を手に入れた劉備は曹操が216年に魏王になっていたことを受けて漢中王を自称した。前漢の高祖劉邦が漢王であった故事に倣ったものであった。一方、東では荊州を奪還するべく孫権は呂蒙たちとともに策を練り、関羽が曹仁の守る樊城を攻めている間に、曹操と同盟を結び、荊州本拠を襲って、孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなった。劉備の養子の劉封は関羽の救援に赴かず、対立していた孟達の軍楽隊を没収し、孟達が曹操に寝返り、曹操軍に上庸を奪われた。劉備は諸葛亮の提案に従い、劉封を自殺させた。

※以上14冊をひとつにまとめた全巻BOXもある。1999年に「北方謙三 三国志」の名前でラジオドラマが放送され、2001年6月14日にはこのラジオドラマをゲーム化した「北方謙三 三国志」がメディアファクトリーより発売された。キャラクターデザインは寺田克也、ナレーションは渡辺謙が担当した。また2004年の2〜3月にかけて放送されたNHK人間講座には作者の北方謙三が出演し、本作へ対する思いなどを語った。愛知県蒲郡市生まれ。愛知県立時習館高等学校から早稲田大学第一文学部英文科卒。

215年、孫権と領土の事について揉め、荊州の南東の2郡を孫権に割譲した。219年、劉備は漢中を守備している夏侯淵を討ち取り、曹操から漢中郡を奪って漢中王になった。この時、劉備は益州のほとんど全部と荊州の半分を領有し、孫権以上の大勢力であった。だが、劉備軍の関羽が曹操領に侵攻している時、曹操と同盟を結んだ孫権に荊州を攻撃され失い、関羽が捕らえられ処刑された。221年、劉備は蜀の皇帝となった。また、諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。さらに劉巴の提案に従い、新しい貨幣を作り、貨幣制度を整備した。益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り塩府校尉を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。

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