涼州軍閥と関連文献
しかしこれらの要素がどのような社会を形成していたのか、歴史学者の間でも意見が分かれ、描ききれていないのが現状である。唐代前半まで権力を保持していた貴族は五代の騒乱の中でその勢力を完全に失い、五代は武人の時代となった。しかしその下で実際の政務に当たっていたのは馮道に代表されるような新興地主層出身の科挙官僚であった。宋が立つと太祖の文治政策により、これら新しい勢力が表に出ることになる。この新しい支配者層を士大夫と呼ぶ。科挙は試験の結果のみを基準とするのであるが、合格するためには長年にわたって勉学のみに集中できる、つまり生業を行わなくても生活できる環境が必要であり、また書物や入門のための費用などもかかるためある程度以上余裕のある階層でなければ合格は不可能な状態であった。そのため科挙合格者の主な供給源は地主・商人層が中心となる。
1793年、イギリスは、広州一港に限られていた貿易の拡大を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使節団は最新の工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、清はヨーロッパの製品は必要とせず、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。こうして対中輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった。この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化した。林則徐は広州でイギリス商人からアヘンを没収して処分する強硬策を取ったが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスはこの機会に武力でアヘン密貿易の維持と開国をさせる決意を固めて、翌1840年清国沿岸に侵入し阿片戦争を起こした。強力な近代兵器をもつイギリス軍に対しアヘンで堕落した清軍により敗北した清は、1842年イギリスと不平等な南京条約を締結した。主な内容は、香港島の割譲や上海ら五港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった。
その武勇、曹操が義理堅いと評した事から、後世の人間が神格化し関帝とし、47人目の神とした。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。『三国志演義』では、「雲長又は関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。彼の出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、その出身地から塩の密売に関っていたといわれている。また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれている。官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った。その後、劉備・張飛と出会い、終生劉備に忠誠を尽くした。劉備が故郷で挙兵したとき、張飛とともに劉備の護衛官となった。劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけた。地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたといわれている。
銅銭は重たくかさばり、また絹や金銀などは高価なため、どちらも持ち運ぶには不便な点がある。それを補うために便銭という為替制度があった。唐の長安には便銭務という役所があり、ここに銭を預けて預り証を受け取り、地方の役所にてこれを換金する。この制度は宋代まで続けられている。これと同じような制度が民間にもあり、堰坊という所で銅銭・金銀・布帛などを預かって交子と呼ばれる預り証を発行していた。蜀に於いては前述の通り鉄銭が使われていたが、鉄銭は銅銭と比べても重く、不評であった。そこで成都の商人たちが集まって鉄銭を預かって交子を発行していた。この交子は重い鉄銭よりも遥かに使い勝手が良く、蜀に於いては広く流通していた。この交子の利益に目をつけた政府は商人たちの経営が苦しくなると商人たちに代わって交子を発行するようになった。この交子は世界最初の紙幣とされる。交子は初めは蜀でのみ流通させていたが、やがて全国へと広がり、兌換の対象も鉄銭から銅銭へと代わった。交子には界と呼ばれる期限が定められており、その間に使用ないし兌換をしなければ紙切れと化すものであった。深刻な銅銭不足でもあり交子の発行額は年々増え、徽宗代には乱発気味となって価値を落とした。また専売の引換券である交引もまた一種の有価証券として扱われ、取引されていた。詳しくは#専売を参照のこと。