行政・治安関連と全般・通史

また民間にも儒教を浸透させるために親孝行を為した民衆を称揚したりした。また法制上でも子が親を告発した場合は告発は受け入れられなかったり、親を殺された場合は敵討ちで相手を殺しても無罪になったりしていた。これらの政策の結果、官僚・民間ほぼ全てにわたって儒教の優位性が確立されることになる。その一方で後漢の人々は迷信に対する傾倒も強く、預言書が皇帝・官僚らにも大真面目に取り扱われたり、各地に現われた怪現象・怪人物が大きな話題となり、『後漢書』の中でもそれら当時の仙人たちを取り上げている。天災が天の意思の現れだと言う思想もこの時期に形成されたようである。中国への仏教伝来は一番早い説が紀元前2年であり、最も遅い説が67年である。この時期には浮屠と呼ばれていた。ブッダの音訳である。当初はあくまで上流階級の者による異国趣味の物に過ぎなかったようだ。しかし社会不安が醸成してくるにつれて、民衆の中にも信者が増えて教団が作られるまでに至ったらしい。

頼長は幼時より令名高く、膨大な和漢の書を読み「日本一の大学生、和漢の才に富む」とその学識の高さを評された。しかしながら、彼は酷薄で他人に容赦のない性格でもあり「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評され、悪左府と呼ばれた。また、儒学を好み誰しもが認める博識であったが、意外にも文学を不得手としており、「和歌の道に堪えず」と公言して漢詩も得意ではなかったと言われている。その日記『台記』には、男色の記録が数多いことで知られるが、男色は当時の社会では普通のことであった。東野治之、五味文彦の研究でその詳細は明らかにされ、男色相手として、随身の秦公春、秦兼任のほか、公卿藤原忠雅、藤原為通、藤原隆季、藤原公能、藤原家明、藤原成親、また源成雅の名が明らかにされているが、五味はうち四人までが、当時院の近臣として権勢を誇った藤原家成の親族であることから、頼長が男色関係を通じて家成一族をとりこもうとしたと推測している。父忠実は関白の兄忠通を嫌い、才能溢れた弟の頼長を偏愛した。忠通は頼長の23歳上だったため、頼長は1125年に忠通の猶子となっていたが、1143年、忠通に実子近衛基実が生まれるとその関係に終止符が打たれ、忠通と頼長は出世を競うようになる。1149年、左大臣に進む。同年、忠実は忠通の藤原氏長者の地位を頼長に与えた。1150年、頼長は源為義・源頼賢の兵を率いて忠通の別邸を襲って氏長者の印たる朱器台盤を奪い、これらを忠実は摂関家ゆかりの東三条殿ともに頼長に渡した。また、この年には頼長は養女多子を近衛天皇に入内させ外祖父になることを望んだ。

このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮している。天正10年6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において明智光秀の謀反により殺された。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した。秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日に山崎において秀吉と戦った。しかし池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は落武者狩りにより討たれた。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。

第4作までは、1国に最低1人は武将を配置しないと、どの君主も支配していない空白地になった。そのため、後半の年代では頭数不足によってクリア不能に陥る事態もあり得た。初期の作品では特に後半の年代は人材不足で、第4作で初期の人物を削り、代わりに後期の人物を追加する調整を行っている。第5作以降は、一度いずれかの君主の支配下に入った都市は、武将不在となっても空白地にならなくなり、1勢力に最低1人残っていればクリア可能になった。もちろん、武将不在都市に攻め込まれた場合、自動的にその都市は奪われてしまう。当初、本シリーズの時代背景や登場する人物の能力や設定は、小説『三国志演義』や、吉川英治の小説『三国志』など『演義』をベースにした作品に準拠していた。登場する人物は『演義』や『吉川三国志』に登場する人物に限られ、しかも後漢末期の人物がほとんどであった。このため、『三國志』というタイトルでありながら、実際に三国鼎立となった220年以降は人物が少なく、ゲームを進めることが困難になることもあった。また、時代背景として、『三國志II』以降、ある一定の条件下で「歴史イベント」が起こるようになったが、これも演義のストーリーを敷衍したものであった。

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