テレビドラマと国際関係

さらに、徳川氏は内部に問題を抱えていた。家康の次男であり、家康も秀忠も礼儀を尽くすなどの、徳川家の中でも別格の存在であり、丁重な扱いをされていた結城秀康は、「幕府が豊臣を攻めたら、自分は堂々と大坂城に入り、秀頼を守る」と公言していた。また、将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。また将軍家でも、秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性があった。家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している。家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。また、孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、その多くは関ヶ原の戦いの敗残兵で家康に恨みをもつ者たちであった。そのような中、慶長12年には結城秀康が、慶長16年に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。

現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては松平氏の菩提寺である愛知県岡崎市の大樹寺、高野山にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。なお、徳川将軍15人中寛永寺か増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光と徳川慶喜がいる。その戦上手は「海道一の弓取」と称され、江戸時代には家康は「神君家康公」と呼ばれ、公然と彼を批判対象とした評論を発表すれば処罰の対象となった。逆に明治から太平洋戦争後までは、朝廷を抑圧した「奸臣」として、賞賛することは慮られるようになった。戦後になって比較的自由な家康批評が行われるようになった。家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は極めて完成度の高いものである。江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして天皇家までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易の憂き目にあっている。これは朝廷や天皇家でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。

昔話、伝説、世間話の違いを表にすると以下のとおりとなる。 狭義のおとぎ話は、太閤秀吉が抱えた御伽衆の語った面白話に起源があるとされる。御伽という風習そのものは別名夜伽にもあるように、古くからある徹夜で語り明かす伝統に基づいている。その晩に話される話を夜伽話、転じて御伽話とされるに至った。大正時代に入ってきた「メルヘン」というドイツ語は「童話、またはおとぎ話」と訳されたので、昔話と童話が混同して使われた事もあった。

なお朱熹の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、タイム誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。朱子学は身分制度の尊重、君子権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問とした。

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