その他・民間の宗教とコンピュータゲーム
赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡を併合した。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は、自らの妹を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。211年、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である張松と法正は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。龐統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正などを引き連れて、数万人の兵を率いて、蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない」と述べて退けた。劉璋は劉備に兵や戦車や武器や鎧などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。
人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府の人材登用では、チンギス時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備まで皇帝の身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関であるケシクテンが重要な意味をもち、政府の要職に任ぜられ政治に携わるものの多くは、皇帝との個人的主従関係に基づき取り立てられたケシクテン所属者たちが出向を命ぜられたものであった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定は皇帝とケシクに列する有力者の合議により行われた。宰相など最高位の官職は、ケシクの中でも皇帝に近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に千人隊長などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣ムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクルの子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な耶律楚材のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。皇帝家との封建的主従関係に基づく世襲を旨とする元においては、科挙によってモンゴルからみて新参者の官僚を登用する必要は存在しなかったので、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われることはなく、モンゴル皇帝の臣民となったのがもっとも遅い南宋の遺民たちが官界で立身する可能性は絶望的であった。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され戸籍に登録された人々、「儒戸」によってまかなわれていた。
在世中は匈奴・鮮卑の侵攻に悩まされ続けた。さらに、後漢末の混乱期から、匈奴・鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、従来の漢人住民とトラブルを起こすようになっていた。侍御史の郭欽は、呉を統一した機会にこれら異民族を辺境に戻すべきだと上奏したが、司馬炎はこれに聞く耳をもたなかった。太康5年以降、天災が相次ぎ、日食もしばしば起き、人心は荒廃した。こうした中、太熙元年夏4月、司馬炎は含章殿において56歳で死に、その遺体は峻陽陵に葬られた。司馬炎は、父・司馬昭の敷いた路線にしたがって晋王朝を創始した。司馬炎は天下を取るまでは英君だったが、天下を取った後は堕落していく。そのことが統一後の国家の基盤形成を怠ったことになり西晋が早く滅亡する要因ともなった。
軍記物の『太平記』では、九州へ落ちた尊氏を追討せよとの命を受けた義貞が、後醍醐天皇より下賜された女官である勾当内侍との別れを惜しみ時機を逸したとのエピソードが記されている。勾当内侍とは内侍司の役職の1つで、後醍醐天皇に仕えた一条経尹の娘をさす。年代などから実在は疑わしく架空の人物と考えられている。太平記では天皇の許しを得て義貞の妻となり、義貞は内侍との別れを惜しみ尊氏追討の機会を逃したと記されており、この事から義貞は皇国史観などでは南朝に殉じた武将として称えられる一方で、忠臣の楠木正成を死に追いやった張本人として厳しい評価もなされた。内侍は義貞の戦死を聞いて琵琶湖に投身した、あるいは京都または堅田で義貞の菩提を弔ったなどの伝説が残されており、墓所と伝えられるものも複数存在する。鎌倉攻撃の際に、大仏貞直の守る極楽寺切通しの守りが固く、さらに海岸は北条方の船団が固めていたが、義貞が稲村ヶ崎で黄金造りの太刀を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になったという話が『太平記』などに見られ、文部省唱歌にも唄われた。なお、『太平記』では、この日を元弘3年5月21日としているが、1915年に小川清彦がこの日前後の稲村ヶ崎における潮汐を計算したところ、同日は干潮でなく、実際には幕府軍が新田軍が稲村ヶ崎を渡れないと見て油断したところを義貞が海水を冒して稲村ヶ崎を渡ったとする見解を出した。これに対して、1993年になって石井進が小川の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を発表している。