百八星は天に帰すと皇帝一族

第1作から第3作までは、呂覇などの例外はあるが『演義』に登場する人物から武将が選定され、作品ごとに数が増やされた。第4作ではいったん整理され、正史に登場しない武将を中心に前半の武将が削られた代わり、後半の年代の武将が追加された。第6作からは『演義』に全く登場しない、正史のみの武将も本格的に登場するようになった。以降も、作品によって初期武将重視や後期武将に目を配るなど比重の違いはあるが、登場武将数は少しずつ増え続けている。一方で、『演義』のイメージも重視しており、正史での評価が低くても『演義』などで活躍した人物は、あまり評価を落としていない。また、『演義』にしか出てこないなど実在を疑われる人物も引き続き登場している。こうして、『三国志演義』や『吉川三国志』、横山光輝の『三国志』など、三国時代を題材にした創作物と、『三国志』『後漢書』『晋書』などの史書と、両方の記述を元にした設定に取り入れられることとなった。さらに同じコーエーの『真・三國無双』シリーズの発売によって、コーエー自身が作ったイメージの流入も起きている。

2002年に『三国志演義』を完訳し、ちくま文庫で刊行。『中国の隠者』や『奇人と異才の中国史』など一般向けの著書も数多くある。中国文学の研究から派生した妖怪・伝奇研究もある。高島俊男が幸田露伴の「運命」について、ネタ本を訓読しただけだと批判したのに対し、直接高島の論には触れず、露伴は取捨選択していると賞賛している。高島との論争には発展していない。

首都開封城は現在の開封市の地下に埋もれている。建築技術という点においては城壁の表面を塼で覆っていることが特筆すべきことである。これによって防御力が上がり、これが坊制の廃止の要因の一つと考えられる開封の場内は物産を運び込むための運河が貫通していたが、宋代にはこれに架けられた橋がユニークな発展を見せた。中でも「虹橋」が有名である。虹橋は木製の梁を角度を変えて重ねることで出来ており、虹のごとく極端なアーチを描いている。虹橋は幅の狭い河に適した形式であり、『清明上河図』に描かれている虹橋は幅20mほどと推定されている。この形式の橋は支柱を要しないため船の行き来に便利である。このような虹橋は山東が発祥であり、徐々に広まっていき開封には三つの虹橋がかけられていたという。船が通らない河では普通の橋がかけられており、木製のものもあれば石製のものもあった。石製の中でも有名なものが泉州市に現存する「洛陽橋」である。この橋は蔡襄が泉州郡守であった時に建設を提唱し、五年をかけて作られたものである。この橋が架かる洛陽江は干満の差が激しく、水流の圧力をそらすために基礎部分は小船の形をしている。全長は540mにもなる。個人の住居に関しては農村では茅葺が多く、都市部では瓦葺がほとんどである。建物の所有者・用途によってその規模・形式には様々な物があるが、基本的な構造には変わりなく、屋根の作りは廈両頭が多い。士大夫層の住む邸宅は主に客を迎える「堂」と私生活の場である「寝」の二つの部分に別れ、これを廊下で繋いだものが多い。

『日本書紀』は入鹿の事績を蘇我氏の越権行為ならびに古人大兄皇子への皇位継承の準備と批判しているが、蘇我氏は元来開明的だった事もあり、唐や百済等当時の国際状況に対応する為だったという意見もある。実際、「上の宮門」「谷の宮門」の跡地とされる場所からは、武器庫の遺構や武器が発掘されている。また、遣唐使も度々派遣されており、唐の日本派兵を蘇我氏が警戒していたことが伺える。入鹿の暗殺とそれに続く蘇我本宗家の滅亡に関して、近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方がある。また、蘇我入鹿という名前は、中大兄皇子と中臣鎌足によって、これまでの名前を資料とともに消され、卑しい名前として彼らが勝手に名付けたものであるという説もあるが、これには反証が試みられている。

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