都市の外観と国際関係

また民間にも儒教を浸透させるために親孝行を為した民衆を称揚したりした。また法制上でも子が親を告発した場合は告発は受け入れられなかったり、親を殺された場合は敵討ちで相手を殺しても無罪になったりしていた。これらの政策の結果、官僚・民間ほぼ全てにわたって儒教の優位性が確立されることになる。その一方で後漢の人々は迷信に対する傾倒も強く、預言書が皇帝・官僚らにも大真面目に取り扱われたり、各地に現われた怪現象・怪人物が大きな話題となり、『後漢書』の中でもそれら当時の仙人たちを取り上げている。天災が天の意思の現れだと言う思想もこの時期に形成されたようである。中国への仏教伝来は一番早い説が紀元前2年であり、最も遅い説が67年である。この時期には浮屠と呼ばれていた。ブッダの音訳である。当初はあくまで上流階級の者による異国趣味の物に過ぎなかったようだ。しかし社会不安が醸成してくるにつれて、民衆の中にも信者が増えて教団が作られるまでに至ったらしい。

しかしその後も、突厥の残部はその後も度々唐に対して反抗し、682年に再び独立して突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において再び自立した。しかし突厥は745年にウイグルを中心とした部族連合に攻められて滅び、ウイグルが突厥にかわって中央アジアから北アジアにかけて広がる遊牧国家を建設する。ウイグルは唐に請われて安史の乱に援軍を送って以来唐に圧力をかけ続け、また高原経由の東西交易を中継して武力を背景に有利な取引を行い、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし8世紀にキルギスの攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は高原を統一する勢力は消滅する。唐は640年に高昌国を滅ぼしたのを初めとして、シルクロード沿いのオアシス国家を服属させて安西都護府を設置し、西域経営を行った。

一方、南唐には徐熙がおり、その画風である「徐氏体」があった。色彩豊かな「黄氏体」に対して「徐氏体」は墨のみを使い、また画題も「黄氏体」がペットを対称にしていたのに対して「徐氏体」は自然の中の鳥を対称にするなどの特徴があり、また没骨ことも特徴である。徐氏も南唐の帰服と共に開封へ移住するが、黄氏が徐氏を排除したために画院は黄氏が基本となり、徐氏は在野となった。以後、黄氏体では崔白、徐氏体では趙昌などが登場し、北宋を通じて両派は発展を遂げ、北宋・南宋交代期の花鳥画の変へと繋がる。以上が専門画家たちの代表である。これに加えて画院の指導者であった徽宗が院体画の代表である。これに対して文人画の代表としては蘇軾、その師である文同、蘇軾の弟子である黄庭堅。米芾とその息子である米友仁が挙がる。院体画では華北山水が主流であり、江南山水はその中で次第に忘れられていた。これに対して米芾は江南山水を称揚し、米法山水の技法を生み出した。北宋・南宋交代の大変動の中で絵画様式にも大きな変化が生まれた。

儒教では五文昌の一人「文衡聖帝」とされて、「山西夫子」と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の徽宗皇帝が爵諡の「忠恵公」後に「武安王」として封じ、「崇寧真君」とした。その後、南宋期には「義勇武安王」とされたと伝わる。明初には神号「協天護国忠義関聖大帝」とされてから、熹宗皇帝が「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」に封じ、清代に入ると順治帝が「忠義神武関聖大帝」として、後に宣帝が「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」と次々と追贈している。多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見える。なお清朝が公認した関帝信仰は、満州を劉備、蒙古を関羽に準えた兄弟結盟を背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった。同時に、清代には県に必ず孔子を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が中華人民共和国初期に多数破壊された結果、現在では関帝廟が単独で多く各地に残る結果となっている。

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