伝統的な人形劇と講談師
諱は本。貫中は字。号は湖海散人。『三国志演義』、『水滸伝』を「編した」とされる。『西湖遊覧志余』には「小説数十種を編撰した」とあるが、現在、羅貫中が編者であることが確認できるのは数種である。また、同じく『西湖遊覧志余』によれば、通俗小説などという俗悪なものを書いたため、子孫三代が唖となったという。賈仲明の『録鬼簿続編』では「戯曲を数十曲書いたが、人付き合いの悪い性格で、最後には行方不明になってしまった」と書かれている。清代の俗説では、元末の混乱時に張士誠に仕えたとされ、「赤壁の戦いの描写は、朱元璋と陳友諒のハ陽湖の戦いをモデルにしていた」と言われる。しかし、彼に関する資料がとても少ないため、「三国志演義は、多くの講談師達が羅貫中の名を借りて出版した」という説もある。
これら使職は律令によって定められる役職の権限を上回って存在し、度支使は本来の財政担当である六部のひとつ・尚書戸部を上回る権限を持つこともあり、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。その後、塩鉄使が転運使を兼ねて東南部の財政を、度支使が西北部の財政を監督するようになる。しかし節度使の割拠により、それらの地域の監督が難しくなると度支使と塩鉄使と戸部曹が一本化され、三司と称して中央財政を司る。またそれまで中書省の中書舎人が行っていた詔勅の起草が、玄宗によって作られた翰林学士により奪われ、翰林学士はこれも宰相に準ずる職として大きな権限を持つことになる。唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。
魏では漢王朝の宗室は禁錮の扱いを受けていたが、西晋成立後の266年解除された。幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官がやはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因であるが、もとを正せば、宦官を重用した和帝と短命の血筋を有した劉家がすべての原因であると言える。この王朝の皇帝は極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝と少帝弁の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝である。
軍議で源為朝の「夜討を仕掛けるべし」との進言を頼長は「夜討は卑怯」と退けた。だが、逆に天皇方から夜討を仕掛けられてしまった。戦闘においては、上皇方にあった鎮西八郎為朝の奮戦も見られたが、結局は数に勝る天皇方の勝利に終わる。上皇方が総崩れとなる中、頼長は家司である藤原成隆に抱えられ騎馬にて御所から脱出するが、源重貞の放った矢が眼にあたり重傷を負う。出血多量による衰弱が進む中、最後の望みとして、上皇方の敗北を知って奈良に逃れていた父忠実に対面を望むが、これを拒まれ失意のうちに舟中で死んだ1177年、安徳天皇の誕生に際し、その祟りを恐れた平清盛により、頼長に対して正一位・太政大臣の官位が贈られた。頼長の死後、長男兼長・次男師長・三男隆長・四男範長は全て地方へ流罪となり、師長を除く三人はそれぞれの配所にて亡くなった。唯一生き残って都に戻ることが出来た師長は、後に父・頼長でさえ果たせなかった太政大臣にまで昇進するものの、今度は平清盛によって再度流罪にされるなど波乱の生涯を送っている。