コンピュータゲームと生い立ち
第9代藩主・徳川宗睦は父・宗勝の政策を受け継いで財政改革を継続し、一時期は財政が好転したこともあったが、天災などによる被害を受けて財政が結局は悪化した。なお、この宗睦の時代にも学問が奨励され、天明3年には藩校・明倫堂が創設されている。寛政11年12月に宗睦は死去した。彼の実子は早世していたため、ここに義直以来の尾張徳川家の血統は断絶した。代わって寛政12年1月に第10代藩主となったのは、一橋家から養子として迎えられた徳川斉朝である。この後、第11代藩主・徳川斉温や第12代藩主・徳川斉荘・第13代藩主・徳川慶臧らは第11代将軍・徳川家斉の実子か、あるいは御三卿から迎えられた養子などであった。彼らは寿命や在位期間が短かったこともあったが、尾張に入国せずに江戸に在住することが多かったこともあって、尾張の藩政は停滞期に入り、藩財政は赤字になった。このため、藩内で御三卿・徳川将軍家などからの養子藩主反対の運動が起こり、支藩の美濃高須藩から本家を継いだ幕末の第14代藩主・徳川慶恕は、養子藩主時代の人事を一新し、財政改革にも一応の成功を収めている。しかし安政5年に将軍後継者問題・条約勅許問題などから一橋派に与して井伊直弼ら南紀派と対立し、この政争に敗れた慶勝は直弼の安政の大獄によって強制的に隠居処分に処され、第15代藩主には慶勝の弟・徳川茂徳がなった。しかし井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、文久3年9月13日には茂徳に代わり、慶勝の子・徳川義宜が第16代藩主となったため、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍し、第一次長州征伐の総督に立てられるなどした。慶勝は慶応4年、鳥羽・伏見の戦い後、藩論を倒幕に決定し、御三家のひとつでありながら徳川将軍家と対決することとなる。
『三国志』何夔伝によれば、曹操は厳しい性格で、職務で誤りを犯した属官をしばしば杖で殴っていた。曹操が司空だった時、何夔は属官となったが、毒薬を所持し、杖で叩かれたら毒薬を飲む覚悟で職務に当たっていた。孫盛は曹操のこの行動を礼節に欠けると批判するとともに、毒薬で処罰を逃れようとする何夔の心の狭さも批判している。西晋の文学者陸機の「弔魏武帝文」によると、298年、陸機は宮中の書庫から曹操が息子たちに与えた遺言を目にする機会を得た。遺言には「生前自分に仕えていた女官たちは、みな銅雀台に置き、8尺の寝台と帳を設け、そこに毎日朝晩兇鮓絏Δ膜討后廚犯禀召靴討い襦J孤靂礁未鉾麕泙丙庸修鮓せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」と評している。日本でも、三国志を題材にした小説を著した吉川英治は「書いているうちに曹操が魅力的に感じた」と後書きで告白している。
京劇でも曹操は悪役として扱われ、瞼譜も悪役のそれである。『三国志演義』の影響によって悪役としての評価がほとんど定着してしまった曹操であるが、1950年代以降に入ってからは逆転し、急速に再評価が進んでいる。近代の中国においては、西欧の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した背景に、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合理性を追求した曹操の施策が、魯迅など多くの知識人によって再評価された。
江戸幕府が滅ぶと、駿府は「静岡」と改名され、徳川宗家が当地に移されて静岡藩が設置され、1871年の廃藩置県まで存続した。1889年の市制施行により、静岡城下にあたる安倍郡の1宿74町および有渡郡の50町が合併して静岡市が成立した。常陸は戦国大名佐竹氏が豊臣秀吉によって支配をそのまま認められていたが、関ヶ原の戦いの際54万石の佐竹義宣は徳川方に加担しなかったため、慶長7年に減転封された。佐竹氏の後、水戸には佐倉より徳川家康の五男武田信吉が入ったが、翌年1603年に信吉が急死し、続いて家康の十男徳川頼宣が入る。1609年、頼宣の領地が家康のお膝元駿府に移され駿府藩が成立すると、頼宣のあとに同母弟の家康十一男徳川頼房が25万石で入った。頼房は28万石に加増を受け、のち元禄時代に検地を行って石高を35万石に改めたがこの改訂はかなり無理があったようである。