ゲームと概説書
若い頃に西洋の数学・天文学を学んで中国古代の暦算学を研究した『三統術衍』を著し、その他に哲学・経学・史学・地理・文字音韻・金石・詩文の諸分野に精通したばかりでなく、官界生活を清廉潔白に過ごし早くに帰郷したことを、阮元が九つの難事を成し遂げた人として称えている。翰林院在職中は『続文献通考』『大清一統志』をはじめとして多くの勅撰書の編集を任されていることは、その造詣の深さを示す。恵棟があまりに古代に執着した弊害と、戴震の史学的視野を欠くことを意識し、それらの欠点を絶えず補正していた。『二十二史攷異』『潜研堂金石文跋尾』は清朝史学の方法を確立。『詩集』20巻により詩人としても知られた。『潜研堂全書』に著述が集成されている。対象とする二十二史とは正史二十四史のうち『旧五代史』『明史』を除いたものであるが、『後漢書』に含められた司馬彪『続漢書』の部分を独立して『続漢書』二巻として収録したため、総目においては二十三史となっている。記述の体裁は『資治通鑑』に倣っており、正史の文字の異同を指摘するだけではなく、遼・金・元の言葉についての校訂を重視しており、語句の解釈や年代・地理的変遷などへも言及している。疑問とする箇所の指摘も行なっており、その綿密な考証の姿勢により、同時代の『十七史商榷』『二十二史箚記』と比べても高い評価を得ている。
後を継いだのは長男の宇文贇だが、宣帝は武帝の厳しい教育を恨んで、父の棺に向かい「死ぬのが遅い」と罵ったと言う。宣帝は即位の翌年に長男の宇文衍である。楊堅の娘は宣帝の皇后となっており、楊堅は外戚として政治に加わっていた。更に静帝が即位し、580年に宣帝が死去すると摂政となって全権を掌握、翌581年に禅譲を受けて隋を建て、北周は滅んだ。江南では劉裕が東晋より禅譲を受けて、420年に宋を建国した。北では北魏が華北統一に追われていたこともあり、建国直後の宋は概ね平和で、第3代文帝の30年近くにわたる治世は当時の元号を取って「元嘉の治」と称揚される善政の時代と名高い。しかしその一方で東晋時代から進行していた貴族勢力の強大化がますます進み、皇帝ですら貴族を掣肘できないという状態を生み出した。この貴族制度から漏れた寒人と呼ばれる層は、皇帝や皇族の周りに侍ることで権力を得ようと画策するようになった。
関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた慶長6年3月23日、家康は大坂城・西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行った。「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を源義家に通じるように整備させた。なお、近年の研究によると、家康が本姓を源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年であるという。後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。他に天正19年、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」と述べている。なお、家康は松平姓から徳川姓に改姓した際には本姓は藤原氏と公称していた。また、実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説とする説がある。慶長8年2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。そして、ここで六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院
黒柚の陶磁器のことを日本では天目茶碗と呼ぶが、北宋初期にはこの黒柚はその製造の容易さから庶民向けの大量生産品であった。これが喫茶の流行により茶器として人気を博すようになる。黒色は茶の色に映え、厚手の身は茶の保温に都合が良かった。華北では定窯、華南では茶の名産地の福建の建窯に特に名品が多く、南宋になってからは建窯はもっぱら天目を焼くようになった。建窯に対抗したのが江西の吉州窯であり、日本で玳皮天目と呼ばれる明るく親しみやすい作風である。これらの陶磁器は宋が海外に輸出する品目の中でも重要な一つとして位置づけられ、東は日本・朝鮮から西はイランにまでその広がりを見ることが出来る。その美しさは現地の陶磁器文化に対しても多大な影響を与えた。彫刻の分野は盛唐期を頂点とし、五代から宋にかけてはその衰退期にあると考えられている。現存する数が少ないこともあり、その様式の変遷に付いては解らないところも多く、今後の発掘・研究が待たれる所である。