都市の交通と編著書

歴代の政府は県の数をこの1000-1400程度の数に収めるために調整を繰り返していた。例えば漢口などは非常な大都市であったにもかかわらず行政上は鎮のままに置かれており、また鎮が増えすぎるとこれを取り壊す場合もあった。県の数が一定であることは経済流通という点では不便である。しかし治安・軍治という点では一定であるほうが都合が良い。この結果として政府の行政単位と経済・社会の単位との間に乖離が生ずることとなる。 五等戸制でいえば、数百から数千の土地を所有する兼併が一・二等、100畝前後の土地を所有する中規模自作農が三等、30から50畝ほどの小規模自作農が四等、20畝以下の零細自作農が五等である。二等戸以上を上等戸、四等以下を下等戸と呼ぶ。土地を所有し、両税を納める戸は主戸といい、土地を持たず納税する能力のない戸は客戸と呼ぶ。

その一方で、1582年にイエズス会員マテオ・リッチらによってキリスト教カトリックがもたらされる。明政府高官の中には、キリスト教に興味を示した者も多数存在したが、それはマテオ・リッチの布教態度に負うところが大きく、彼の死後は宣教師たちのもたらした様々な西洋科学技術にこそ価値を見出すようになった。明人では、代表的なキリスト教信者として徐光啓の名を挙げることができるが、徐光啓は時の内閣の宰相として西欧文化の紹介に努め、西欧暦法に基づき、以後の中国における暦を改変した人物である。また、マテオ・リッチが作成した坤輿万国全図は、それまで世界の全てであった中国が地球の一部でしかないと言う事を知らしめたという点で、士大夫の世界観に大きな影響を与えた。このように、イエズス会は清代にまで政治・文化の上で大きな影響をもたらした。前述のようにこの時代には漢詩の分野では見るべきものが少ない。明初には古文辞運動が起こる。宋詩を批判して漢代の文・唐代の漢詩がもてはやされるようになり、『唐詩選』が刊行されている。しかしこの時代の詩文はどうかと言うと多くが単なる懐古趣味的な模倣に堕した感がある。その中で歴史の分野で特筆するべきが李卓吾である。陽明学左派の思想を元にそれまでの朱子学的な歴史観を引っくり返した過激な文章を次々と発表して、明政府に危険視されて捕縛され、最後は獄死した人物である。彼の思想は後世に影響を与えて五・四運動に置いて開放思想として評価された。

呉では229年に孫権が皇帝を名乗り、一時代に一人だけの名目だった皇帝が同時に三人並ぶことになった。230年に呉は海を渡って夷州と亶州に兵を出したという記録があり、これは台湾と沖縄諸島ではないかと考えられているが、日本ではないかとも考えられている。この頃、呉の呂岱は交州に出兵して、この地の独立勢力の士氏一族を滅ぼして、この地を呉の直轄とし、南海交易の利益を占めた。

地方権力を代表する豪族・外戚と中央の皇帝の側近である宦官との権力対立は深刻な物となり、豪族側は自らを清流・宦官のことを濁流と呼んで非難し、宦官側は豪族達を党人と呼んで弾圧して回った。166年に司隷校尉の李膺が宦官の犯罪を摘発したことをきっかけとして第一次の党錮の禁が起きる。李膺を初めとした200余人が逮捕されたが、豪族勢力の働きかけにより釈放されて禁錮となった。しかし李膺たちは義士として称えられることになり、三君・八俊と言った人物の格付けを行った。その後も世論、地方の豪族達による宦官非難の声は止まず、宦官勢力はこれに対抗するために169年に第二次の党錮の禁を起こす。今度は官職追放では留まらず、李膺は逮捕後に獄中で殺され、死者は百人を超えた。更に党人の親族縁者も禁錮とされ、太学の学生たちも逮捕された。

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