吉良家剣客の子孫との噂ありと国際関係

太平 256年 - 258年甘露 265年 - 266年 宝鼎 266年 - 269年

黄龍 229年 - 231年 嘉禾 232年 - 238年 赤烏 238年 - 251年

9月15日午前8時、美濃国・関ヶ原においてついに東西両軍による決戦が繰り広げられた。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であったが、正午頃、かねてより懐柔策をとっていた小早川秀秋の軍が西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、西軍の大谷吉継隊に襲いかかったのを機に形成が逆転する。大谷軍も奮戦したが、さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が家康の本陣目前にまで猛攻してくるという非常に危険な局面もあったものの、家康率いる東軍の勝利に終わった。家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領により自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地は西軍の大名領もろとも失われた。その結果として、豊臣氏を摂津・河内・和泉の3カ国65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた慶長6年3月23日、家康は大坂城・西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行った。「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を源義家に通じるように整備させた。

この頃、尾張の織田信長による美濃侵攻が連年のように激しくなるが、義龍時代は信長の攻勢を防いでいた。しかし義龍が死去すると、後を継いだ龍興が若年・凡庸だったために家臣団に動揺が走り、一転して織田氏の侵攻を防ぐことが困難となった。そのような状況を見た信長が永禄4年7月に美濃に侵攻してくるが、斎藤勢は重治の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。永禄6年にも新加納で織田勢と戦い、このときも重治の戦術のために斎藤勢は勝利した。ところが、主君の龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため永禄7年2月、弟の重矩や舅の安藤守就と共に龍興の居城・稲葉山城を16人の部下とともにわずか1日で奪取した。織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を明け渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還した。

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