陶磁器と思想・宗教
こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにも関わらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。また、信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。家康は次男・於義丸を秀吉の養子として差し出し、「羽柴秀康」とし講和した。戦後、秀吉は権大納言に任官されている。その後、秀吉は天正14年には妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。天正11年、大坂本願寺の跡地に大坂城を築く。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。当時としては他に類を見ない巨大な要塞であったが、後に大坂の陣で消失。現在の大阪城は近年になって復元されたものである。
208年、劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど江夏太守の黄祖が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた。
諸説ある。 漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「氵」と、『周礼』で東を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進出の意味を込めたというもの。また、「しん」という読み方が、北京官話と異なることは長崎や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などにみられる程度である。ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch'ing」と綴る。1958年のピンイン制定後は「Qing」と綴る。
明治以降、芸娼妓解放令が出され、1875年には遊女屋は「貸座敷」と名を変えたが、遊女は相変わらず「籠の鳥」であり、自由な外出もできず、人身売買の実態は江戸時代と同様、旧態依然の状態であった。明治の吉原風俗は『ヰタ・セクスアリス』や『たけくらべ』といった作品からも窺える。特に樋口一葉は吉原近くの竜泉に小間物屋を構えるなど当地との縁が深い。1903年には、写真指名システムがはじまり、1916年には、張店が禁止された。江戸時代には、1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、1862年、1864年、1866年と度々火災に見舞われたが、近代以降も1911年4月9日には大火が発生した。また、関東大震災、東京大空襲でもほぼ全焼し、多くの犠牲者を出したが、そのたびに不死鳥の如く復活した。第二次世界大戦後、GHQの指令により公娼廃止となり、営業形態も民主化され、特殊飲食店街、いわゆる赤線となった。赤線は1958年に消滅した。