皇帝の姓と思想・宗教
215年、曹操は漢中の張魯を降伏させた。その後、曹操軍は数年間にわたり、益州を制圧した劉備軍と漢中周辺で激戦を繰り広げた。219年、漢中を守備している夏侯淵が劉備に討ち取られ、曹操自ら漢中に援軍に出向いたが、苦戦し被害が大きくなったので撤退、漢中を劉備に奪われた。また、劉備の部将の関羽が曹操の勢力下の樊城・襄陽を包囲し、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、曹操の部将の于禁・龐徳を捕虜とした。曹操は司馬懿・蒋済の提案に従い、孫権と同盟を結び、徐晃らを派遣して関羽を破った。220年、曹操は病のため死去し、武王と諡された。曹操の子の曹丕が魏の皇帝になると、太祖武皇帝と追号された。
その後、文広は燕家荘で鮑飛雲とその父親の妨害を受け、武術では負けなかったものの逃げる鮑飛雲を追いかける途中に落馬して捕虜になってしまう。これまた、同じようなパターンで文広は鮑飛雲とも結婚する。帰還後、文広は父の宗保が病で死亡したので、跡を継ぎ楊家軍の当主となる。もともと、文広は仁宗の娘と婚約していたのに、「何時の間にか三人もの娘と結婚しているのはどういうことか」と問題になるが、魏化らが事情を説明することで場を納める。しかし、狄青らの度重なる讒言に嫌気がさした文広は友人の魏化とともに鶴に変身して宮廷を去るのだった。この辺りは史実はどうという検証をするのが馬鹿馬鹿しいほど荒唐無稽な展開になり、また敵味方ともに妖術の使用が目立つ。水滸伝の終盤をイメージしていただけると、近いと思われる。
宋初に於いては寇準などの詞が挙げられるが、仁宗朝になってからが真の隆盛期といえる。この時期の詞人としては晏殊・欧陽脩・張先・柳永らの名前が挙がり、特に後者二人は詞の新しい境地を開いた人物として重要である。張先は都官郎中を最後として退官し、以後は杭州に隠棲してこの地で八十九まで長寿を誇った。その間、様々な人物が張先の元を訪れてこの時代に於ける詞のサロンを作っていた。それまでの詞では元の曲名のみが記されていることが多く、その詞の背景に付いては全く分からなかったのだが、張先の始めたことから詞を詠んだときの状況が簡単に付されるようになった。また張先により詞はふとした日常的な事柄が詠まれるようになり、この時期をもって詞は詩と共に文学として士大夫の間に広まっていったと考えられる。柳永は科挙を受けるために開封にやってきたが、そこで身を持ち崩して娼館に入り浸るようになったという人物である。その経験からか男女に関する詞が多く、使われる表現も俗語を交えたもので、士大夫たちからは激しく批判された。これまでの詞は小令と呼ばれる六十字までの物がほとんどであったが、民間に於いては慢詞と呼ばれる長文の物が主流であった。これが柳永の登場以降、士大夫の間でも慢詞が謡われるようになった。
これら民間の信仰に対して、その規模が小さい間は、政府は特に口出しをしない。しかし規模が大きくなり、また規範の面で好ましくないと考えられた場合には「淫祀」とされ社や廟が取り壊される。更に規模が大きくなり政府にとって危険な存在であると認識された場合には「邪教」とされ弾圧の対象となる。代表的な宗教はマニ教である。唐代には国家によって公認されていたマニ教であったが、呪術的な傾向を強めたために次第に政府の警戒を受けるようになり弾圧の対象となった。方臘の乱の中核はマニ教徒だったのではないかとも言われている。また孝宗期に慈昭子元によって創始された白蓮宗は弥勒信仰を中心とした仏教結社で、既存の宗派から異端視されることもあったが、民間に多くの信徒を集めた。宋代には「邪教」とされていた訳ではないが、後に白蓮宗の一部が弥勒下生を願う反体制集団白蓮教となった。