登場キャラクターと陶磁器

粗暴で、知略に優れ、武芸に秀で、腕力が非常に強く、馬上で左手と右手のどちらでも弓を引くことができたという。若いころは羌と交わり、羌族のある族長たちが面会に来たとき、董卓は農耕に使う耕牛を殺し、その肉でもてなした。族長はとても感激し、帰ると董卓に畜獣千頭を贈ったという。その後、州の兵馬掾となって、騎兵を率いて、略奪を働いた胡を討伐し大勝した。桓帝の末年、董卓は良家の子弟であることから、羽林朗となった。張奐の率いる軍に従軍し、反乱を起こした羌族と戦い、張奐軍は族長を斬り一万人余りを捕斬する大勝となった。この功績により董卓は郎中に任命され、絹九千匹を賜ったが、絹九千匹を全て部下に分け与えた。辺境で軍人として活躍し、異民族と戦い、西域戊己校尉・并州刺史・河東太守などを歴任した。このように、記録によると元来機知に富み、士卒の気持ちがわかる親分肌の人間であったとされている。中国の北部・西部では漢民族の人物とされていても遊牧民の血が混じっている場合が多く、彼もそのような人間であったのかもしれない。

東晋以来、貴族勢力が強かったものの、貴族勢力との妥協のもと政治を行なった。文帝の治世は元嘉の治と呼ばれ、国政は安定したが、文帝の治世の末期には北魏の侵攻に苦しむようになった。また、孝武帝以降の諸帝は乱れた政治を行なったため、ついに479年、順帝は、蕭道成に禅譲した。蕭道成は斉王朝を開き、ここに宋は滅亡した。対外的には、北涼・吐谷渾・北燕・高句麗を冊封下に置き、北方の柔然とも結んで、華北で有力だった北魏に対抗した。倭の五王による南朝への入貢の大半は宋の時代におけるものである。

前述したように都市のあちこちに店屋があったのであるが、当然都市の中で盛んなところと寂れたところに分化する。開封には相国寺という寺があり、大運河によってここまで入ってくることが出来た。つまりここで荷降しをすることになるので、周囲には仲買人や直接買い付けに来る商人たちで大変にぎわった。臨安では宮城から北に伸びる大通りの中間部分が最も栄えており、ここに食器店・貴金属店・薬剤店などのが集中的に立ち並んだ。人の集まる商業区にはそれを目当てに飲食店・娯楽・風俗店などが集まる。

その後、孫権に対して親征を行うも夷陵の戦いで陸遜に大敗し、白帝城に逃げ延びそこで没した。享年63。後継は嫡子の劉禅と定め、その補佐を諸葛亮に託した。後に昭烈帝と諡された。昭は光に通じ、烈は武に通じるため、後漢を復興して蜀漢を建国したとする劉備の事績をふまえ、前漢を復興した後漢の光武帝を意識した諡号となっている。『三国志』では、劉備を諡号の昭烈帝ではなく、“先主”と呼んでいる。これは『三国志』が正統としているのはあくまでも魏であり、正統ではない劉備を皇帝としては認めていないためである。劉備は前漢の景帝の第8子、中山靖王劉勝の末裔とされる。劉勝は劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として爵位を賜った。だが、紀元前112年の年始頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。

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