テレビドラマと放送系統

家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領により自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地は西軍の大名領もろとも失われた。その結果として、豊臣氏を摂津・河内・和泉の3カ国65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた慶長6年3月23日、家康は大坂城・西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行った。「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を源義家に通じるように整備させた。なお、近年の研究によると、家康が本姓を源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年であるという。後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。他に天正19年、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」と述べている。なお、家康は松平姓から徳川姓に改姓した際には本姓は藤原氏と公称していた。また、実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説とする説がある。

天平宝字4年、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年に孝謙上皇は平城京に帰還し、5月23日に法華寺に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年9月に挙兵するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。天平神護元年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。神護景雲3年、大宰府の主神中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の託宣を報じた。これを確かめるべく、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡に送られたが、この託宣は虚偽であると復命した。これに怒った道鏡は清麻呂を因幡員外介として左遷し、さらに称徳天皇は清麻呂を除名し大隅国へ配流した。その後、道鏡の故郷である河内国に由義宮を造営した。

なお、この分割でモンゴル皇帝・クビライに対してジョチ、チャガタイ、オゴデイの三王家が自立の態度を明確にしたと従来言われていたが、三王家が一致してクビライに反抗した訳でも、カイドゥがモンゴル皇帝に即位したという記録もある訳ではない。『集史』などの記録から、この「タラス会盟」は王家同士の紛争に対する緊急避難的な領土分割協定であったと現在では考えられている。やがてオゴデイ家のカイドゥがクビライの統制に嫌って西方へ逃れて来た王族たちを匿う形になり、中央アジア諸王の間で盟主としての地位を確立し、カイドゥの反抗はモンゴル帝国中央部と東部を分ける抗争へと発展する。1270年、バラクはイルハン朝のアバカとの会戦に大敗してブハラで客死し、アバカとのマーワーアンナフル争奪に敗れカイドゥとの紛争にも敗れたチャガタイ家の王族たちは、ムバーラク・シャーはアバカのもとへ帰順してアフガニスタンのガズニーを所領として分与され、バラクの子ドゥアはカイドゥに応じて中央アジアのチャガタイ家当主となり、アルグの遺児チュベイらの一門は東方へ赴いてクビライに帰順した。クビライは南宋がバヤンに降服した1267年、第4皇子ノムガンを主将とするカイドゥ討伐軍を中央アジアへ派遣し、同時にアバカにも正式な封冊によって「カアンの代官」の称号を与えてカイドゥを挟撃する作戦に出た。ところが、ノムガンの遠征軍は、アルマリクで遠征軍に参加していたモンケの子シリギらに叛乱を起こされ、ノムガンは副将アントンや同じく第9皇子ココチュらともども捕縛されてしまった。シリギら叛乱王族たちはカイドゥやモンケ・テムルに共に決起するよう呼び掛けたノムガンとココチュ兄弟をモンケ・テムルヘアントンをカイドゥへ人質として送ったが、両者はノムガンらを保護したものの決起には全くに応じなかった。クビライは南宋戦線からバヤンをカラコルムへ転戦させると、反乱軍は速やかに鎮圧されてしまった。反乱軍に加わっていたアリク・ブケ家のヨブクルやメリク・テムルはクビライからの処罰を恐れてカイドゥのもとに逃れた。こうしてシリギの叛乱は収束したが、クビライによる中央アジア直接支配の計画は二度に渡り頓挫し、代わりに、カイドゥは自らの所領に加え、ドゥアの西部のチャガタイ家領、アルタイ方面にあったアリクブケ家の三つのウルスを勢力下に収めることができた。その間、クビライは、政治機関として中書省を設置し、カラコルムにかわる新都として中国北部に大都を造営、地方ではモンゴル帝国の金攻略の過程で自立してモンゴルに帰附し、華北の各地で在地支配を行ってきた漢人世侯と呼ばれる在地軍閥と中央政府、モンゴル貴族の錯綜した支配関係を整理して各路に総管府を置くなど、中国支配に適合した新国家体制の建設に着々と邁進し、1271年に国号を大元とした。モンゴル帝国西部に対するモンゴル皇帝直轄支配の消滅と、中国に軸足を置いた新しいモンゴル皇帝政権、大元の成立をもってモンゴル帝国の緩やかな連合への再編がさらに進んだ。

中国では京劇やテレビドラマで定番となっており、お年寄りから子供まで幅広く知られている。日本では楊家将を知っている人は少ないが、1990年代にNHK BS-2で三国志や則天武后が放送された時期に楊家将が放送されたことがある。なお、田中芳樹が「中国歴史ロマンシリーズ」の3つめとして1997年ころ徳間書店から和訳を刊行する予定を立てていたが、現在でも出版されていない。また、北方謙三が『楊家将』という小説を執筆したが、これは訳書でなく内容的にはほぼ北方氏のオリジナル小説になっている。結局の所、現在まで和訳書籍は出版されていない。しかし、ウェブ上で有志の翻訳などが見られており、日本語で読めないわけでもない。外部リンク参照。

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