概説書と北宋期の展開

その後、各地に王や郡王の増加によって支給する禄米が増加して明の財政は悪化した。そこで皇族のために「皇荘」と呼ばれる荘田を設置して経費を補わせ、また皇荘の一部は皇帝からの下賜された特例としてそのまま皇族の私有の荘田にすることを許した。だが、親王や郡王は役人が自分達を恐れて干渉できないことを良いことに一種の地主と化して皇荘内において思うままに農民からの租税や土地そのものの収奪を行い、そこで得た収益を元手にさらに高利貸しなどの商業活動や土地の集積を進めたり、郷紳などからの投献を受けたりして皇荘へと編入していった。このため、官田が王達によって奪われて財政収入が減少するという事態が生じたため、1470年には皇荘の税率を定めて実際の管理を地方官に行わせることを定めたものの、皇帝自らが王達に特例を認める事がしばしばであり、何の解決にもならなかった。特に万暦帝の実弟である潞王・朱翊鏐や3男の福王・朱常洵などは万暦帝の寵愛を背景に数万頃に及ぶ大地主と化して農民に対して更なる収奪を行ったものの、皇帝の不興を買って粛清されることを恐れた官僚たちは具体的な対策を打とうとはしなかった。こうした状況は人々に強い不満を抱かせ、明末の農民反乱の標的に王や郡王があげられることになった。元末からの騒乱により中国の荒廃は甚だしいものがあり、特に華北は一面荒野が広がるほどの状態であった。その一方で江南地帯の荒廃はそれほどでもなく、強い経済力を有していた。この江南に対して農民出身の洪武帝は彼らが強い力を持つことを警戒して、抑圧政策を取っていた。しかしそれでも江南の経済力は成長を続け、明全体の経済の中心として活躍する。農民出身であった朱元璋は農業特に米や麦などの穀物生産を極めて重視する政策を取った。特に重要視したのは、明が創業の地とした江南の豊かな農業資源である。宋の時代には「蘇湖熟すれば天下足る」と呼ばれていたのが、特にこの時代にはその一地域であった蘇州・松江のみで「蘇松熟すれば天下足る」と称されるようになった。朱元璋は張士誠の支配地域であったこの地域を真っ先に占領して農地を悉く国の直轄とした。さらに中期ごろからは長江中流域の湖広の農地開発が急激に進み、末期には「湖広熟すれば天下足る」と呼ばれるようになっていった。

本姓は当初藤原氏、次いで源氏と名乗った。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。永禄9年12月29日に勅許を得て徳川氏に改姓。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。応仁の乱以降100年以上続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下をさらに磐石のものとし、264年間続く江戸幕府を開府し、その礎を築いた。日光東照宮・久能山東照宮などで「東照大権現」として祀られている。戦国時代に、三河国・岡崎に岡崎城主・松平広忠の子として出生。幼名は竹千代。

文禄5年、明との間の講和交渉が決裂し、慶長2年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2ヶ月で慶尚道、全羅道、忠清道を席捲、京畿道に進出後、南岸に城塞を築いて久留の計が取られることとなる。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け苦戦したが、援軍を得て大破した。同年の貴族の日記に、大阪城にいる秀吉のもとに象が連れて来られたと記録されている。慶長3年5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。そして、自分の死が近いことを悟った秀吉は同年7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼した。 5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・徳川秀忠・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記し、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。秀吉死去の際、五大老のうち上杉景勝は会津に帰郷していた。秀吉の死はしばらくの間秘密とされることとなった。なお、秀吉の死因については現在も不明であるが、近年「脚気」だったという説も唱えられている。死の直後に通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに伏見城から阿弥陀ヶ峰に遺体を移し埋葬され、家督は秀頼が継いだ。

軍事面では、国防上の必要から都城周辺と荊州北部に二大駐屯地が設置され、一方を北府、一方を西府と称していた。402年の五斗米道の反乱鎮圧や、417年の後秦遠征の成功など経て共に政治的な強い影響力を有するようになり、政権内部での発言力が強まっていった。東晋末期は、安帝より禅譲され楚朝を立てた西府軍の領袖・桓玄が劉裕により誅殺されると、北府軍を掌握する劉裕の勢力が強大となっていった。420年、恭帝より禅譲された劉裕により宋朝が開かれ、東晋は滅亡した。代々土地の豪族となって繁栄した一族に生まれた。蜀漢に仕えた習禎の子孫。若くして志を持ち、博学で、文筆により著名だった。荊州刺史桓温が招聘して従事とし、江夏相の袁喬が彼の能力を認めて桓温に推薦したので、西曹主簿に転任し、厚遇されるようになった。その後、別駕に昇進した。

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