概説書と清の后妃

魚介類ではコイ・エツ・フナ・フグ・ヒラウオ・甲殻類・貝類・ドジョウ・ウナギなどなど。野菜・果物もまた数多く利用されており、一部を挙げるとダイコン・ウマヤゴシ・シュンギク・タケノコ他多数。調理方法としてはおひたしや吸い物が多い。果物はウリ・モモ・ナシなどが食べられ、またレイシは高級品として珍重されていた。調理法もまた非常に多岐にわたるのでここでは記さないが、特筆すべきは魚肉を生で食べる膾である。膾は元は肉を細切りにして食べるものであったが、次第に魚が膾と呼ばれるようになり、肉の膾は「生」と呼ばれるようになった。この時代の膾は南方の料理であり、華北ではあまり無かった。唐代まではニンニクだれが主流であったが、宋代にはユズだれが好まれるようになった。肉の生もニンニクだれが主流であった。魚・肉共に生食は元代以降は急速に廃れ、明代になるとほとんど存在しなくなった。

197年、袁術は皇帝を自称するが、このことで袁術は求心力を失い、部将の孫策らの離反を招き、その勢力は急激に衰えていった。孫策は揚州の諸勢力に勝利し、揚州の大半を勢力下に収めた。曹操は呂布・袁術などを滅ぼし、曹操に反逆した劉備を追い散らして河南から山東までの地域を統一する。一方、袁紹も公孫瓚を滅ぼして、河北・山西を領有し、曹操と袁紹とがにらみ合う状態となった。両雄は200年の官渡の戦いで激突する。当初は兵力に勝る袁紹が有利であったが、曹操が袁紹の兵糧庫を奇襲してこれを焼き払ったことをきっかけに曹操の大勝利に終わり、中原での覇権を確固たるものとした。曹操はその後のしばらくは袁紹の息子の袁譚・袁尚らを滅ぼすことに費やし、黒山賊の張燕を降伏させ、袁氏に味方した袁紹の甥の高幹や烏桓族を攻め下し、袁紹の旧勢力を吸収した曹操は圧倒的な大勢力となり、南下に乗り出す。荊州の劉表が死去すると、曹操は南征を開始した。まず劉表の後を継いだ劉琮の降伏を受け入れて荊州を併呑した。これにより劉表の元に身を寄せていた劉備は南へ逃れることとなり、荊州で出会った諸葛亮の献策によって孫策の後を継いだ孫権と同盟して曹操を迎え撃つ体勢を整えた。曹操軍と孫権・劉備連合軍は赤壁にて激突し、孫権配下の周瑜や黄蓋らの活躍により、曹操軍を破った。この戦いで曹操軍は飢えと疫病で非常に多くの兵士が亡くなった。

更に開封を落とし、1643年に襄陽にて大元帥、続いて新順王と名乗って六部などの国家としての制度を整え、更に西安を陥落させる。翌1644年に西安に入った李自成は国号を大順、元号を永昌と定め、この地で順王を称する。2月には李自成軍は北京を目指して北伐を開始し、同年の3月に北京を陥落させ、明を滅ぼした。李自成の軍が北京城に入城した際には、市民のみならず官兵まで明皇帝を見捨て、隊列をつくってこれを歓迎したという。北京に入城した李自成たちはここでいよいよ全中国の皇帝となるための諸手続きや儀式の用意を始めた。入城後の李自成軍は殺人鬼として有名な張献忠の軍が合流したこともあり、厳正であった軍規もすっかり緩み、略奪・強姦・殺人が横行していた。その頃、東北地方では満州族に対して前線の拠点である山海関を守っていた呉三桂が清に対して投降していた。その後、李自成軍はドルゴンと呉三桂率いる清と明の遺臣の連合軍と激突し、大敗。慌てて北京を逃げ出した。実に入城から40日と言う短い天下であった。さらに李巌と牛金星の確執から牛金星が李巌を殺害して清軍に投降してしまう。その後西安に逃れた李自成軍だが、ここもすぐに放棄して通城に逃れるが、李自成は九宮山にて現地の農民の自警団により殺される。ただし、僧侶に変装して1674年まで生き延びたと言う伝説もある。

朱熹の祖先は五代十国時代に呉に仕えた朱瓌で、婺源の守備に当たったことからこの地に籍を置くようになったと言う。 その八世の子孫が朱熹の父・朱松である。朱松は周敦頤・程顥・程頤らの流れを組む「道学」の学徒であり、1123年より任官して県尉に任命されていた。1127年に靖康の変が起き、北宋が滅んで南宋が成立した後の1128年に南剣州尤渓県の県尉に任命されるが、翌年に辞職して尤渓県の知人の元に身を寄せた。1130年、この尤渓県にて朱熹が生まれる。

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