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この頃、尾張の織田信長による美濃侵攻が連年のように激しくなるが、義龍時代は信長の攻勢を防いでいた。しかし義龍が死去すると、後を継いだ龍興が若年・凡庸だったために家臣団に動揺が走り、一転して織田氏の侵攻を防ぐことが困難となった。そのような状況を見た信長が永禄4年7月に美濃に侵攻してくるが、斎藤勢は重治の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。永禄6年にも新加納で織田勢と戦い、このときも重治の戦術のために斎藤勢は勝利した。ところが、主君の龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため永禄7年2月、弟の重矩や舅の安藤守就と共に龍興の居城・稲葉山城を16人の部下とともにわずか1日で奪取した。織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を明け渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還した。

272年、歩闡が呉に背き、西晋に寝返ったが、呉の陸抗がこの反乱を鎮圧した。279年、西晋の司馬炎は呉に出兵し、280年に呉を滅ぼし、ついに中国統一を実現した。ここをもって三国時代は終わった。統一後の武帝はまったく堕落し、女色に耽って政治を省みず、上級官僚の間では現実の政治を無視した清談が流行した。さらに武帝は、地方分権を図り一族を地方の王として任命し、大きな権力を与えたため、死後には後継者恵帝が無能な為に后一族らと司馬一族による権力争いが起こった。この乱で国力を消耗した晋は劉淵による漢の建国とその侵攻によって晋は統一から30年で崩壊し、再び中国は分裂状態に逆戻りすることとなった。

玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相李林甫、ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に作られたもので、辺境に駐留する将軍に行政権も与える制度である。北方3州の節度使を兼ねて大軍を握っていた安禄山は、たちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させて大燕皇帝と称した。都の長安も占領され、玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻の援軍によって、763年に辛うじて乱を鎮圧した。9年に及んだこの反乱は、安禄山と、その死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。反乱鎮圧に大きな役割を果たした回鶻には外交上の優位を許し、交易でも主導権を奪われて多くの財貨が漠北へと運ばれた。この大幅な貿易赤字は唐の財政を悪化させた。

208年、曹操が大軍を率いて南下してくると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、帰順派が多勢を占める中、孫権は抗戦派の意見を入れて開戦を決断した。孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより、曹操の水軍を大いに破り、江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、不利を悟って撤退した。戦後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合した。また、孫権は劉備とともに南郡を攻め取り獲得した。その後、程なくして劉琦が死去したために劉備自ら荊州刺史となった。その後、劉備は京城で孫権と会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話し合った結果、劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。210年、孫権は交州刺史の歩騭を派遣して、士燮を服属させ、呉巨を謀殺した。

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