人々の生活と都市の外観
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。建国に勲功を立てた李世民は、626年に高祖の長男で皇太子の李建成を殺し、第2代の皇帝となる。太宗は外征においては当時の北方の強国突厥をくだしてモンゴル高原を支配下に置き、北族から天可汗、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては中国においてその後も長く政治の理想形とみなされた三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて天后であった武后とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって実権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後に自ら帝位に就き、690年国号を周と改めた。
政庁地区については、発掘調査以前には「現在見える礎石が創建時のもの」、「941年の藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかった」、という考えが主流であった。前者の考えについては各遺構面が存在することによって否定され、後者については、第2期遺構面上に堆積する焼土層によって焼失の事実は証明されたものの、第3期の遺構がさらに規模を拡大して再建されていることが明らかとなり、現在では否定されている。第1期から第2期への改築は、律令制度によって政府機関として確立したことに対応するものである。第3期は律令制度が弛緩している時期にあたるため、第2期より大規模な造作が行われていることに多くの研究者が驚かされたが、現在では、当時の政庁運営で中心的役割を担っていた在庁官人層の拡大に対応するものと理解されている。大宰府に条坊制による街区が存在することを想定したのは、のちに九州大学教授となる鏡山猛が初めてで、1937年のことである。鏡山は、政庁域を方四町、観世音寺域を方三町と推定した場合、両者の南辺を東西線上に一致させることができること、かつその場合の政庁東辺と観世音寺西辺の間が二町となることをもって、一町を単位とする造成企画の存在を想定し、その適用範囲を広げると周囲の道路や畦畔に合致するものが多いことを指摘。加えて観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称の分析から、東西各十二条、南北二十二条の、東西約2.6キロメートル、南北約2.4キロメートルに亘る条坊域を想定した。その実態は1930年代に存在していた道路や畦道に基づく「机上の復元案」といえるものであるが、大宰府の条坊の存在を指摘し、学界に注意を喚起した功績は揺るがない。鏡山案は現在もっとも知られているもので、一般向け図書やHPなどで紹介されている復元図はほとんどがこの鏡山案である。
その後、脚の病を患い郷里に帰ったが、襄陽が苻堅の手に落ちると、苻堅は彼の名を聞いていたので習鑿歯を彼の友人の僧侶道安と共に召し出し、彼らと語り合い厚遇した。習鑿歯は脚を患っていたため、苻堅は「晋が呉を平定した時には陸氏二人を得たが、今我らが漢南を破って得た人物は一人と半分だった」と各地に書を出した。その後、習鑿歯は襄陽に帰った。ついで晋が襄陽を奪還すると、朝廷は習鑿歯に国史編纂を掌らせるため召し出そうとしたが、ちょうどその頃に死亡した。臨終に際して上奏し、魏を僭称者とする自説への反論に反駁した。子の習辟強は才能や学問において父のような風格があり、官位は驃騎将軍従事中郎に至った。習鑿歯は『漢晋春秋』のほか、『襄陽耆旧記』も著している。裴松之は「孫盛や習鑿歯は異同を捜し求めて漏洩なし」と賞賛している。
天正7年4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた。秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させたが、重治はすでに自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して6月13日に死去。享年36。死因は肺の病気とされる。墓所は陣地のあった兵庫県三木市平井山観光ぶどう園内にある。他にも三木市志染町の栄運寺、岐阜県垂井町の禅幢寺、滋賀県能登川町の浄土寺などにも墓所がある。尾張国愛知郡中村の半農半兵の家に百姓として生まれた。今川家を出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。その後、織田家内部の勢力争いで他の家臣はおろか主家をも制し、信長の後継の地位を得る。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。