劉表勢力とテレビドラマ

明滅亡後は、清軍の圧迫を受けて成都を捨て、1646年10月20日に塩亭県鳳凰山で粛親王豪格の軍勢と交戦中に射殺された。成都を離れた時に700人ほどだった大西の軍はこの時わずか25人にまで減っていた。なお残党は献忠の死後も抵抗を続け、1659年に重慶が陥落するまで清朝への抵抗運動を続けた。張献忠は嗜虐癖が異常に強く、残酷な殺戮を好んだ。彭孫貽の『平寇志』によれば、崇禎八年には安徽省の鳳陽県で街に火を放ち数万人を殺戮し、同じ年に安徽省和州を攻撃した際も虐殺を行った。特に「屠蜀」もしくは「屠川」といって四川在住者を次々と無差別に殺戮し、四川人はほぼ全滅に近くなった。清朝の史料を信用すれば、順治三年に張献忠が成都から落ちのびる時に自暴自棄となり空前の殺戮を行い、40万人を数えた成都の人口はわずか20戸にまで減り全滅同様になった。「天府之国」と称された四川省は徹底的に破壊され、300万人ほどの人口が8万人となった。『明會要』巻五十によれば明の神宗万暦六年に人口310万2073人だった四川は、嘉慶『四川道志』巻十七によれば、清の聖祖康熙二十四年には1万8090人となっていたという。このため清朝の前半、1671年から1776年までの間にかけて湖北省・湖南省・広東省などからの移民数百万人が四川省へと移民した。現在の四川人の方言が北京普通話に近いのもこの時の張献忠による四川人殲滅殺戮によって古代四川人が壊滅したことが大きいとされる。

天紀 277年 - 280年蜀は魏、呉と共に中国三国時代を形成した一国である。巴蜀を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため漢が正式な国号である。蜀或いは蜀漢という呼称は後世の人々が統一王朝であった漢との区別のため便宜上つけたものである。また、季漢と称することもあった。208年、劉備は孫権と同盟を結んで赤壁の戦いで曹操を破り、209年、孫権とともに荊州を攻め、荊州の4郡を制圧し、支配下に収めた。後に、孫権から荊州の南郡を譲られた。

商人の家に生まれたが、乾隆帝に認められ軍機処の章京を務めた。その後、1761年、進士に及第する。1766年、広西省鎮安府の知府となる。本来は殿試一甲第一であったはずが、偶々一緒に殿試を受けた者の中に災害被災地域出身の受験者がおり、その人物が恩賜によって特別に一甲第一待遇を受けることになった。その一方で、趙翼は辺遠の地方官を遍歴することに憤ったのか、一時期、官途を去り、郷里に戻る。1787年、旧知の仲の閩浙総督の李侍尭の幕僚の一員となった。その後は、安定書院の主講として著述に専心した。その自序中で述べているところによれば、経学は難解であるが、史書は渉猟しやすい。なおかつ我が家には蔵書数が少ないため、正史のみを考証した。正史の二十二史を読む中で気づいた点を書きとめておき、互いに矛盾する記載や興味をもった問題などを比較研究し、それを一書としたのが本書である、という。実際には『新唐書』『新五代史』をも含めた二十四史全てを扱っているが、趙翼の著述の当時これら二書は正史には加えられていなかったため、二十二史と称した。上記の自序中で述べるような異同の問題のみならず、その筆は、各史書の編纂の経緯や筆法、各時代の政治の得失、太平と動乱など王朝の興亡や動静にも及んでいる。その項目数は、全体では約500件に及んでいる。ただし、その考証の精緻さにおいては、同時期の王鳴盛・銭大昕などの考証学者中の大家には及ばないという評価がなされている。また、その考証の論点を傍証するために正史以外の書物まで引用するということも原則的にはしていない。ただ、歴代の正史について見る場合には簡便な書物であり、正史を読む際の参考にはなる。日本では頼山陽が序文を付した和刻本が出版されており、頼山陽はその序文の中で、歴代正史を読まなくても、この本を読めばあらましは分かると述べ、日本では正史の概要を知る本として知られた。

劉備本軍は涪城を占拠し、冷苞・劉?・張任・鄧賢を破り、綿竹の総指揮官である李厳を降伏させるなど、初めは順調に進んでいたものの、劉循・張任が守る雒城にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって死去している。そして、諸葛亮ら別働隊と合流した劉備はようやく雒を落とすことに成功し、さらに成都を包囲、劉璋は降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。これにより天下三分の形勢がほぼ定まった。蜀を奪って安定した地盤を得た劉備であったが、孫権勢力からの警戒を買うこととなった。もともと赤壁の勝利は孫呉の力によるものであると考えていた孫権は、荊州はその戦果として当然帰属するべきものと考えていた。劉備の荊州統治を認めていたのは、曹操への防備に当たらせるためであり、劉備の勢力が伸長しすぎることは好ましいことではないと考えていたのである。

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