サブタイトルと社会・経済
建安元年1月、荀彧と程昱の勧めに従い、長安から逃げてきた献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れるために、曹洪に献帝を迎えに行かせたが、董承に妨害された。同年2月、黄巾賊の黄邵・劉辟・何儀らを破り、豫州西部を制圧した。同年9月、董昭の策略を用いて、献帝を許昌に迎え入れた。曹操は司空・車騎将軍に任命された。同年、曹操は屯田制を開始している。建安2年春、宛に張繍を攻めて降伏させた。この際に曹操は張繍の叔父である張済の未亡人を妾としたが、そのことに張繍が腹を立てていると知って彼の殺害を考えるも、事前にそれを察知した張繍に先制され、敗れる。この敗戦で長男の曹昂・忠臣の典韋を失った。建安3年、張繍を穣に包囲した。劉表が兵を派遣して張繍を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。同年4月、後漢王朝は裴茂・段煨らを派遣して、李?を滅ぼした。同年冬、呂布を攻める。呂布は下邳城に籠城したが、水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させ、豫州東部と徐州を制圧した。
江戸時代後期の侠客である国定忠治の武勇伝はのちに『水滸伝』の影響を受けて脚色された。浪曲や講談で知られる『天保水滸伝』は、侠客笹川繁蔵と飯岡助五郎の物語に水滸伝の名を冠したものである。なお、2009年10月、飯岡まちおこし実行委員会は、千葉県旭市飯岡で開催した飯岡助五郎没後150周年記念イベントで、「真相天保水滸伝」と題して、飯岡助五郎が実は房総半島の海防を担当した白河藩主・松平定信の次男で、天保の改革の海防の老中・松平次郎の方も、実は、ローマ市民権を持ち日の丸を軍旗とする伊達家の子孫・岩瀬忠震であり、天皇の勅許無く日米修好通商条約に署名した人物だったとしている。そして、旧い講談の「天保水滸伝」を、原本の水滸伝同様、明王朝の官服を纏う徳川幕府の悪政を正す内乱を描いたものとして評価し、その真相に迫った。著者は、作詩・作曲・戯曲作家の性氏。翻案では吉川英治の遺作となった小説『新・水滸伝』、横山光輝の漫画作品『水滸伝』や森下翠、正子公也の『絵巻水滸伝』、北方謙三の小説『水滸伝』、吉岡平の『妖世紀水滸伝』などが知られる。
この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。やがて袁術が討伐途中で死去したため、そのまま徐州に居残った。劉備は朱霊らが帰還した後に、徐州刺史の車冑を殺して、下邳の守備を関羽に任せて自らは小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱・王忠の両将を破った。だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われた。『三国志』蜀書先主伝の注に引く『魏書』によれば、劉備は攻めて来た曹操の指揮の旗を見ると、戦わずして逃走したという。袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。
1189年、孝宗が退位してその子・光宗が即位するが、暗愚であったため、1194年の孝宗の死後、趙汝愚と韓侂冑らが協力して光宗を退位させた。光宗の後に寧宗が即位すると、趙汝愚の与党だった朱熹は政治顧問に抜擢された。しかし功労者となった韓侂冑と趙汝愚が対立し、趙汝愚が失脚すると朱熹も罷免されてしまい、わずか40日あまり中央に出仕しただけに終わった。その後の政界では韓侂冑が独裁的な権限を握る。1196年、権力をより強固にするため、韓侂冑らは朱熹の朱子学に反対する一派を抱き込んで「偽学の禁」と呼ばれる弾圧を始めた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そして1200年、そうした不遇の中で朱熹は71歳の生涯を閉じたのである。『論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』のいわゆる「四書」に注釈を施した。これは後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。