親曹操勢力と農村の様相

197年、楊奉と韓暹は呂布と同盟を結び、袁術を大いに撃破し、徐州・揚州付近を荒らしていたため、劉備は楊奉・韓暹を討ち取る。198年、呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破され、小沛は陥落し、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して劉備軍を回収すると共同して呂布を攻めて、呂布を生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少しためらったが、劉備は呂布がかつて丁原と董卓を殺したことを挙げて曹操を諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「こいつが一番信用できないのだぞ!」と罵倒したが、結局、処刑された。劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「天下に英雄といえば、おぬしと予だけだ。袁紹などでは不足よ」と評されている。

劉備は、龐統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛・趙雲らを連れて長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した。214年に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また、伊籍、法正、李厳、劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。

『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている。」と述べている。諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に十万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。

皇帝の姓を愛新覚羅という。本来の満洲語ではAisin gioroと発音し、 アイシンは「金」、ギョロは「氏」ということで、即ち「金氏」を意味する。清は、一世一元の制と踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである。順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号・諡号をもって呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。ここでは狭義の意味の説話を説明する。

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