各篇の名称と後世の評
口承文芸は無文字時代から存在し、一般に、昔話・伝説・世間話などの民話、新語作成、新文句、諺、謎、唱え言、童言葉、民謡、語り物などに分類される。このうち、昔話には、発端句と結句に代表される決まり文句がある。また、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られる。時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「爺」「婆」や、出生・身体の特徴をもとにした普通名詞的である。「桃太郎」は、「桃から生まれた長男」の意味しか持たない。伝説は、同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が具体的に示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の何と言う人物など、好んで詳細に示そうとし、定義において昔話との大きな相違点とされる。 これらの事から、伝説には伝記風の態度と要素があるが、昔話はフィクションとして語られている。しかし一部の土地では「炭焼き長者」や「子育て幽霊」などといった昔話が伝説化し、定着している例も挙げられる。
歴代藩主で最も有名なのが、その継友の弟であり、第7代藩主となった徳川宗春である。宗春は倹約を主とする徳川吉宗の政策を批判し、名古屋城下に芝居小屋や遊郭を設置し、積極的な商業政策を推進した。これは吉宗の緊縮財政に対して真っ向から対立するものであり、吉宗から咎めを受けたが、宗春は無視して政策を推し進める。しかし享保20年に入ると積極財政に行き詰まりが起こり、さらに藩士の遊郭出入りなどから士風も乱れるなどの問題などから、財政赤字となる。このため、宗春の改革は停滞し、元文4年1月13日に宗春は吉宗によって強制隠居処分に処された。宗春の後を継いで第8代藩主となったのは、従弟の徳川宗勝である。宗勝は宗春時代の藩政を改め、倹約令を中心とした緊縮財政政策を行ない、藩財政を再建する一方で、学問を意奨励して巾下学問所を創設した。第9代藩主・徳川宗睦は父・宗勝の政策を受け継いで財政改革を継続し、一時期は財政が好転したこともあったが、天災などによる被害を受けて財政が結局は悪化した。なお、この宗睦の時代にも学問が奨励され、天明3年には藩校・明倫堂が創設されている。寛政11年12月に宗睦は死去した。彼の実子は早世していたため、ここに義直以来の尾張徳川家の血統は断絶した。
洪秀全は当初広州付近で布教を行ったが成功はしなかった。1844年、洪秀全は馮雲山とともに広西に移動し布教活動を行い、その地での信徒を増やしていった。1845年から1846年の間に洪秀全は『原道醒世訓』、『原道覚世訓』、『百正歌』等の作品を発表している。1847年初め、洪秀全は広州に戻り教会で数ヶ月教義を学習し洗礼を求めたが、教会は教義に対する認識が不十分として拒絶した。洗礼を受けることが叶わなかった洪秀全は再び広西に向かい馮雲山と合流、拝上帝会の規則や儀式を次々と制定していった。勢力を拡大した拝上帝会は、キリスト教と相反する清朝と対立するようになり、1851年1月に起義を宣言し、清朝に反旗を翻した。1851年初、洪秀全は天王を自称し太平天国を建国した。1852年、太平軍は広西から湖南へと進出、1853年には南京を占拠、天京と改称し太平天国の首都に定めた。太平天国前期では軍事関係は全て軍師により指揮され、洪秀全は軍事行動と距離を置いて朝政を司っており、その大権は東王楊秀清によっていた。天京に首都を定めた後、洪秀全は四書五経を禁書としようとしたが楊秀清はこれを拒否、結局禁書指定は行われなかったが、この事件をきっかけに洪秀全と楊秀清の溝が深まることとなった。洪秀全は同じく楊秀清に不満を募らせている北王韋昌輝、翼王石達開、燕王秦日綱と協力し、1856年に3人に対し楊秀清誅殺の密詔を出し、9月には天京事変が発生、楊秀清、韋昌輝、秦日綱が粛清された。事件後は翼王である石達開が実権を掌握したが、洪秀全は兄弟である洪仁発、洪仁達を重用し石達開を牽制、結果石達開の不満を引き起こし、石達開は大軍を率いて洪秀全の指揮を離脱した。一連の政変で太平天国の実権を掌握した洪秀全であるが、これ以降太平天国の勢力は急速に衰えていく。
張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質という息子がおり、また諸葛懐という息子・諸葛果という娘がいたとされる。 諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。なお、「『襄陽記』に息子の諸葛懐、娘の諸葛果がいた」とする記述が見られる事があるが、『襄陽記』の中にはそのような記述はない。佐賀県唐津市生まれの幼少時代を九州・佐賀県で過ごす。実家は曾祖父の代から、唐津市で菓子屋を経営。父親は外国航路の船長だったため、会えるのは船が帰港する時だけ。その都度、横浜に会いに出かけていた。小学校5年の時に、神奈川県川崎市に転居。芝学園を経て、中央大学法学部法律学科入学。学生運動華やかなりし時代であり、全共闘運動に没入。在学中の1970年、純文学作品『明るい街へ』を同人誌に発表。同作が雑誌「新潮」に掲載され、学生作家としてデビューを果たす。1973年同大学卒業。PR誌の企画スタッフをしながら執筆を続ける。