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なお、明朝崩壊に伴う大量虐殺による死者数は、マシュー・ホワイトによれば2500万人に達し、歴史上の大量虐殺ランキングで5位となっている洪武帝、永楽帝と創業の二人の皇帝がいずれも独裁的な恐怖政治を行ったため、それ以降の明の政治も同じようになった。皇帝の不興を買えばそれまで権勢並ぶものが無かった高位の臣でも即座に死を賜ることがよくあった。明の官吏は常に誅殺におびえ、朝、家族と水杯をし、死を覚悟して出仕し、夕、帰って再び家族と出会えたことに喜んだという。このため明の官吏は多く事なかれ主義に走り、明の政治は皇帝の出来不出来に全てがかかってくることになり、名君の時は果断に善政が進められるが、暗君の時は目も当てられないような悲惨な状況になった。そして明の不幸は、名君の治世は短く暦帝が在位48年というように暗君の治世が長いということにあった。明代後期より富裕な士大夫層が地方の指導者としての地位を確立し郷紳と言う新しい身分層を形成し始める。彼らは基本的に官僚であり、官僚としての地位とその間に積み上げた財産を持って地方の民衆からの尊敬を集めて指導者として、政府の地方官にすら命令するほどの権力を持った。しかし唐以前の貴族とは違い、血縁を持って財産を保持しているわけではなく、一族の中に科挙に合格するものが長い間出ない場合は没落してしまうことになる。郷紳のことを「一代限りの貴族」と表現する人もいる。のちの清代では郷紳層は地方の強い基盤を基に辛亥革命の中で活躍することになる。
新政府はまず運営にあたって、有能な人物の出仕を行った。民間からはまず最初に大阪で「適塾」一派の福澤諭吉を招こうとするが断られ、大村益次郎・寺島宗則・神田孝平・柳川春三を招聘。江戸にて再度、細川潤次郎が福沢諭吉を説得するも応じず。旧大名は薩摩藩と長州藩を中心に、土佐藩、肥前藩の四藩でほぼ構成された。公家からは岩倉具視と三条実美などが出仕し、連綿と政策を打ち出した。のちに森有礼らが召集した優秀な学者達は『明六社』を結成し、日本最初の「学会」が発足した。新政府は欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗するために、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指した。新政府は、明治2年には各藩に版籍奉還を命令し、明治4年には、廃藩置県を行った。地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。また、新政府は欧米列強の桎梏から脱出する為、富国強兵を国の重要政策とし、郵便制度の整備、鉄道の敷設、輸出産業の育成を行い、明治6年徴兵制を実施した。
その一方で民間における小説の分野では数々の名作が誕生した。『三国志演義』・『水滸伝』・『西遊記』はこの時期に完成したとされる。また戯曲の分野も発展し、「牡丹亭還魂記」などの名作が作られている。また永楽帝の命により百科事典『永楽大典』が編纂されて、古今の書物の中から重要と思われる文章が抜き出されて収録された。元末期、戦乱に明け暮れる他の地方に比べて江南蘇州は張士誠政権の下で繁栄を謳歌していた。ここでは毎日のように文学サロンにおいて漢詩の大会が開かれたり、著名な画人達が腕を競っていた。この中でも黄公望・呉鎮・倪瓚・王蒙の四人の優れた画家を「元末四大家」と呼んでいる。
東晋以来、貴族勢力が強かったものの、貴族勢力との妥協のもと政治を行なった。文帝の治世は元嘉の治と呼ばれ、国政は安定したが、文帝の治世の末期には北魏の侵攻に苦しむようになった。また、孝武帝以降の諸帝は乱れた政治を行なったため、ついに479年、順帝は、蕭道成に禅譲した。蕭道成は斉王朝を開き、ここに宋は滅亡した。対外的には、北涼・吐谷渾・北燕・高句麗を冊封下に置き、北方の柔然とも結んで、華北で有力だった北魏に対抗した。倭の五王による南朝への入貢の大半は宋の時代におけるものである。