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慶長12年には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた。慶長16年、二条城にて秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣氏はこれを拒絶する方向でいたが、将軍・秀忠は秀頼の義父である関係からあくまで「義父への挨拶」という名目で上洛を要請し、加藤清正等の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に「家康が日本の武家の棟梁である」ことを示したとするのが一般的な見解であるが、豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感することになったとの見解もある。最晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であり続けた。一大名の位置に転落したとはいえ、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった。また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には、秀頼は秀忠を上回る右大臣に昇進している。

伝説は、同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が具体的に示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の何と言う人物など、好んで詳細に示そうとし、定義において昔話との大きな相違点とされる。 これらの事から、伝説には伝記風の態度と要素があるが、昔話はフィクションとして語られている。しかし一部の土地では「炭焼き長者」や「子育て幽霊」などといった昔話が伝説化し、定着している例も挙げられる。世間話は体験談や実話として語られる民話である。昔話、伝説、世間話の違いを表にすると以下のとおりとなる。

『後出師表』は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が引用している。しかしこの文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲がなぜかすでに死んでいる事にされている点に矛盾がある。また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して八陣の図を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『李衛公問対』では、唐の名将李靖の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。三国志演義では、諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。諸葛亮は発明家でもあり、諸葛亮に関係した物として、晋時代に普及した筒袖鎧・連発式の弩を工夫した元戎・一説には一輪車の起源とされる木牛・一説に四輪車と言われる流馬・駐留時栽培させた諸葛菜・織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦・字を知らない民の教育に使用した紙芝居・諸葛亮が考案したおもちゃ孔明鎖・現在雲南地方に諸葛亮発明の物として孔明灯なるものなどがあるとされる。

幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官がやはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因であるが、もとを正せば、宦官を重用した和帝と短命の血筋を有した劉家がすべての原因であると言える。この王朝の皇帝は極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝と少帝弁の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝である。後漢の政治体制は基本的に前漢から引き継いでいるので前漢の項も参照すること。

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