袁家勢力と朱熹の登場

その後、董卓は呂布を養子にし、兵力を背景に司空となった。劉弁の生母である何太后を脅して劉弁を廃させ、陳留王を皇帝とした。また、何太后が霊帝の母である董太后を圧迫したことを問題にし、権力を剥奪した。董卓は何太后を永安宮に幽閉し、まもなく殺害した。その後太尉に、ついで相国となり、朝廷でゆっくり歩くことと帯剣を許された。位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、色香に飢えた董卓の蛮兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた。 意外な一面として兼ねてより仲の悪かった皇甫嵩に対しては一度は処刑するつもりで召還し、逮捕投獄するものの、当時交流のあった皇甫嵩の息子が取り成すと免罪し、以降は壇上に上る自分に皇甫嵩一人だけが頭を下げないという反抗的な態度をとられても「義真、まだかな?」と促し、彼も素直に「これは失礼した。」と謝罪をした事で許している。董卓の専横に反発した袁紹・袁術などの有力者は、橋瑁の呼びかけで初平元年に反董卓連合軍を組織した。董卓は弘農王を毒殺し、防衛に不利な洛陽を避け長安に強制的に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。その後も董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃った。董卓は河陽津で陽動作戦を用いて王匡を大いに破った。また徐栄を派遣して、滎陽県汴水で曹操・鮑信を大いに破り、また梁県で孫堅を破った。しかし、その後、董卓軍は孫堅との戦いに敗れ、洛陽の町を焼き払い、長安に撤退した。しかし董卓の長安撤退後に劉岱と橋瑁が反目し、橋瑁が殺害されたり糧秣が尽きるなどして連合軍は自然解散となり、有力者は各自の勢力拡大に走った。

曹操は若くして機知・権謀に富んだが、放蕩を好み素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ太尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。また、橋玄が紹介した月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子將は、「子治世之能臣亂世之奸雄」)または「君清平之奸賊亂世之英雄」と評した。曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を歴任した。洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に、霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは曹操追放を画策したが理由が見つからず、逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた。

呂布に破れ逃亡中の劉備はこの男の元へ匿ってもらう。劉安は狼の肉で劉備を歓待した。翌朝、劉備は厨房で腕の肉を切り取られた女性の死体を発見して驚き、劉安を問い詰め、彼が妻を殺してその肉を狼の肉と偽って提供したことを知る。劉備は悲しみにたえきれず涙を流した。劉安は年老いた母を残して御供するわけにはいかないと別れを告げた。後日、劉備が曹操に会ってその経緯を説明すると、曹操は孫乾を使者として金百両を与えた。佐野に住む貧しい老武士、佐野源左衛門尉常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。常世は僧を相手に、一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらばいち早く鎌倉に駆け付け命懸けで戦う所存であると語る。

その自序中で述べているところによれば、経学は難解であるが、史書は渉猟しやすい。なおかつ我が家には蔵書数が少ないため、正史のみを考証した。正史の二十二史を読む中で気づいた点を書きとめておき、互いに矛盾する記載や興味をもった問題などを比較研究し、それを一書としたのが本書である、という。実際には『新唐書』『新五代史』をも含めた二十四史全てを扱っているが、趙翼の著述の当時これら二書は正史には加えられていなかったため、二十二史と称した。上記の自序中で述べるような異同の問題のみならず、その筆は、各史書の編纂の経緯や筆法、各時代の政治の得失、太平と動乱など王朝の興亡や動静にも及んでいる。その項目数は、全体では約500件に及んでいる。ただし、その考証の精緻さにおいては、同時期の王鳴盛・銭大昕などの考証学者中の大家には及ばないという評価がなされている。また、その考証の論点を傍証するために正史以外の書物まで引用するということも原則的にはしていない。ただ、歴代の正史について見る場合には簡便な書物であり、正史を読む際の参考にはなる。日本では頼山陽が序文を付した和刻本が出版されており、頼山陽はその序文の中で、歴代正史を読まなくても、この本を読めばあらましは分かると述べ、日本では正史の概要を知る本として知られた。巻末には補遺として、趙翼が『御批歴代通鑑輯覧』の編纂に参加した時の、遼代・金代・元代の人名・地名・官職名などの漢訳・訂正の記録を収録している。

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