西方・南方と真正の画工と成るを得べし
天平宝字4年、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年に孝謙上皇は平城京に帰還し、5月23日に法華寺に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年9月に挙兵するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。天平神護元年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。神護景雲3年、大宰府の主神中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の託宣を報じた。これを確かめるべく、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡に送られたが、この託宣は虚偽であると復命した。これに怒った道鏡は清麻呂を因幡員外介として左遷し、さらに称徳天皇は清麻呂を除名し大隅国へ配流した。その後、道鏡の故郷である河内国に由義宮を造営した。
元の商税は銀納で、税率をおよそ3.3%に定められた。元の商税設定の特異な点は、都市や港湾を商品が通過するときにかけられていた関税を撤廃し、最終売却地で、売却時に商税を支払えばよいようにした点にある。こうして物流にともなう関税の煩雑な手続きが避けられるようになり、しかも実質税額が低く抑えられたので、元では遠隔地交易が活性化し、国庫に入る商税の総額は非常に莫大なものとなった。しかし、元において8割とも言われる歳入のもっとも大きな部分を占めたのは、次に詳しく触れる塩の専売制である。中国では北宋代には会子と呼ばれる紙幣が流通しており、モンゴル帝国も、オゴデイの時代には既に金や南宋で使われていた紙幣を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る交鈔と呼ばれる紙幣を流通させていた。元ではクビライが即位した1260年に中統元宝交鈔と言う交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。
永隆 680年-681年 開耀 681年-682年 永淳 682年-683年
引き続き権力を握った仲麻呂は唐で安禄山の乱が発生したことを機に、淳仁天皇の名において隣国新羅の討伐を目論み、国内制度も日本的なものから唐のものへ名称を変更するなどの政策を推し進めた。天平宝字4年、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年に孝謙上皇は平城京に帰還し、5月23日に法華寺に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年9月に挙兵するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。天平神護元年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。