涼州軍と明の皇帝

遼との戦いから数十年が経過し、いまや楊家軍の当主となった楊宗保も既に白髪の老人となっている。このころ南蛮で儂高智が反乱を起こすと、狄青が派遣されるが負けて帰ってくる。そこで、宋は楊家軍の楊宗保とその息子・楊文広を南蛮征伐に派遣する。最初は順調であったが、思いのほか楊家軍は苦戦すると包拯の進言で楊家の女将軍が援軍に駆けつける。こうしてやってきた文広の姉、宣娘の仙術の活躍もあって、ついに楊家軍は南蛮平定に成功する。ちなみに、史実においては儂高智のおこした反乱は狄青により平定されている。なお、楊家将演義においてのちのちも狄青は楊家軍に敵対する役割を与えられている。ある日、仁宗が東岳におくった使者が女山賊・杜月英らに襲われ貢物が奪われるという事件がおきた。これにたいして楊家軍が派遣されるのであるが、途中で楊文広は杜月英の義妹である竇錦姑と戦って敗北、竇錦姑に「私と結婚しなければ殺す」と脅迫され、これを承諾する。さらに、文広は竇錦姑より10倍強いと言われる杜月英のとも結婚させられてしまう。だが、山賊は貢物を返してくれたので一応の一件落着ということで、文広は貢物を納めに東岳に向かう。

一般的な基準による、特定の登場人物が登場する最初の成功した連載漫画は、アメリカのリチャード・F・アウトコールトによる連載一コマ漫画『ホーガンズ・アレイ』か、ドイツ系アメリカ移民のルドルフ・ダークスによる連載コマ漫画『カッツェンジャマー・キッズ』であった。『ホーガンズ・アレイ』の主人公であるイエロー・キッドの人気は連載された新聞の売り上げ拡大に貢献し、その他の連載漫画の誕生を促した。この漫画ブームは、大衆芸術としての漫画の始まりを示すものであった。アメリカ合衆国において漫画を示す用語である「コミックス」は、ユーモラスな物語を特徴とした初期のコミック・ストリップに用いられた形容詞「滑稽な」に由来する。1929年に、アクション漫画である『バック・ロジャーズ』と『ターザン』の連載開始により、コミックはその分野を拡大し始めた。更に多くの漫画が誕生する内に、「コミックス」という用語は、やがて作品の内容よりも形式を指す用語となっていった。また、1929年にはベルギーの新聞『ル・ヴァンティエーム・シェクル』付録の白黒漫画で、タンタンが初登場した。タンタンの物語は1930年に『タンタンソビエトへ』の一冊にまとめられ、ユーロピアン・コミックスのコミック・アルバムの形式で出版された。

その後も世論、地方の豪族達による宦官非難の声は止まず、宦官勢力はこれに対抗するために169年に第二次の党錮の禁を起こす。今度は官職追放では留まらず、李膺は逮捕後に獄中で殺され、死者は百人を超えた。更に党人の親族縁者も禁錮とされ、太学の学生たちも逮捕された。しかし黄巾の乱が勃発すると宦官たちには軍の指揮は出来ず、どうしても豪族達の持つ軍事力を使う他無くなり、禁錮を解いて黄巾党の鎮圧に当たらせた。鎮圧後には既に群雄割拠の下地が出来上がっており、宦官の勢力は189年に袁紹に十常侍たちが皆殺しにされたことで消滅した。前漢中期から儒教の勢力が強くなり、国教の地位を確保していたが、光武帝は王莽のような簒奪者を再び出さないために更に儒教の力を強めようとした。郷挙里選の科目の中でも孝廉を特に重視した。また前漢に倣って洛陽に太学を設立し、五経博士を置いて学生達に儒教を教授させた。孔子の故郷である曲阜で孔子を盛大に祀って、孔子の祭祀は国家事業とした。

なお、これに先立って天正17年7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の関東移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7ヶ国に移封された。これは150万石から250万石への類を見ない大幅な加増ではあるが、徳川氏にとっては縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党などによる不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高の上昇の割には実収入の増加も見込めない状況であった。しかし家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。関東の統治に際して家康は、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、四公六民という北条氏の定めた税率は、その後徳川吉宗の享保の改革で引き上げがなされるまで継承されることとなる。

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