行政・治安関連と陶磁器

唐代の美術品については安史の乱や黄巣の乱により、多くが破壊され、現存するものが少ない。そこで唐代美術を伝えるものは莫高窟や龍門石窟などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となる。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、さらに仏教美術が圧倒的に多いことが特徴であり、これらは西方の影響が強いと考えられる。絵画においては閻立本・呉道玄・李思訓・王維と言った名前が挙がる。閻立本は太宗に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意とした。ボストン美術館にある『歴代帝王図』は閻立本の手によると伝えられるが、北宋代の模写であると推察されている。呉道玄は玄宗に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたという。蘇軾曰く「画は呉道士に至りて終われり。」と。しかし作品は全て現存していない。李思訓は武則天期の人で、色鮮やかな山水画を得意とした。これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ北宗画・南宗画の祖として扱われるようになる。これが安史の乱以降になると、西方の影響が薄れて水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られるようになる。この代表として同時代の絵画評論文集『唐朝名画録』は王墨・李霊省・張志和の三人を挙げている。王羲之によって芸術の域にまで高められた書はその王羲之を尊崇する太宗とその周囲に集まった人物たちによって隆盛を迎える。書に於ける唐初三大家と呼ばれる存在が虞世南・褚遂良・欧陽詢である。これら初唐の書は王羲之以来の均整を重んじるものであるが、これに対して張旭は狂草と呼ばれる奔放な書体をつくり、さらに張旭に師事した顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立てた。上述の呉道玄と同じく蘇軾曰く「書は顔魯公に至りて終われり。」と。

凱旋した楊家軍は、これまた繰り返されたパターンであるが、楊家軍を妬む佞臣の讒言に辟易させられる。文広自身はそれでも宋に忠誠心を持っていたが、息子の懐玉らは既に宋自体に対し嫌気がさしていた。そこで懐玉らは佞臣の代表格である張茂の一族を皆殺しにすると、太行山に引きこもり、以後は二度と宋に力を貸さないと宣言する。これは、あくまで叛意のない老齢の文広には秘密裏におこない、振動の少ない車で運ばされた文広はついに自分が太行山にいるとは知らずに天寿を全うした。湖南公立法政学校を卒業し、1912年に司法官となり、のちに天津高等検察庁の書記官を務める。その後、官僚として活躍するとともに、「正義報」や「民徳報」の文芸欄主筆に就任する。また、孫文に影響を受け、「中国革命同盟会」の一員としても活躍した。後年は、地方の小軍閥の幕僚などを務めたといわれるが、その没年については詳細不明である。地方の小軍閥の幕僚を務めていた1920年代に、北京市内の古書店で購入した「三国旧志」なる怪しい内容の古文書などにヒントを得て、袁世凱らの北洋軍閥を曹操に、孫文を劉備になぞらえた小説『反三国志』の執筆・新聞での連載を開始し、1928年に第1巻を刊行させた。

湿式は乾式に比べて質の悪い銅鉱石でも銅を得ることが可能であるという利点があり、乏しくなりつつあった銅産をある程度支えた。しかし銅鉱の枯渇という大問題の前には根本的な解決策にならず、北宋末から南宋にかけて銅銭の鋳造量は激減し、更に清代に雲南の銅山の供給を得るまでは、中国において銅銭は衰退せざるを得なかったのである。この時代に石炭の使用が一般的になり、それに伴って製鉄の効率も増した。鉄鉱・製鉄業を行う者を抗冶戸・抗戸・冶戸・抗炉戸・炉戸などと呼ぶ。後代においては採鉱と精錬とを別の人間が行うことも多くなるのだが、この時代には採鉱・精錬は概ね同じ者が行う。抗冶戸は大資本を持った者が行うことが多く、労働力として浮浪の者を百人から数百人集めて採鉱を行わせていた。そのため鉄鉱山の労働者には特別の管理体制が必要になるので、鉱山は特別の行政区である監が置かれることになる。一方、河東路では鉄・石炭の双方が豊富に産出したために小資本・家族経営の抗冶戸も存在した。

代わって甲斐甲府藩から同じく家康の9男で忠吉の弟である徳川義直が47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って、ここに尾張藩が成立した。藩領は随時加増されてゆき、元和5年5月16日に56万3206石となった。さらに、寛文11年紀伊徳川家との格差をつけるため、給人領5万石を加増され61万9500石の知行高が確定した。領域は尾張のほぼ一国のほか、美濃・三河・信濃・近江・摂津と広範囲にまたがった。近江や摂津にあったのは給人領地である。義直は着任当初まだ幼少であったため初期の藩政は家康の老臣たちによって行なわれたが、成長してからは義直自ら米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立している。

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