「戦国時代」の節についてとギャラリー

モンゴルの建てた元朝は14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝は大都を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が初めて、唯一である。洪武帝は統一を達成すると外征を抑え、農村の検地や人口の調査を進めて里甲制・衛所制を布き、内政の安定に力を注いだ。一方で洪武帝は功臣を粛清し、宰相にあたる中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる独裁の体制を築いた。しかし、1398年洪武帝が死ぬと2代皇帝となった孫の建文帝と帝の叔父である洪武帝の子たちの間が不和となり、北京を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男燕王が反乱を起こした。1402年、燕王は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した。これが永楽帝である。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北京へと移った。

1889年の市制施行により、静岡城下にあたる安倍郡の1宿74町および有渡郡の50町が合併して静岡市が成立した。常陸は戦国大名佐竹氏が豊臣秀吉によって支配をそのまま認められていたが、関ヶ原の戦いの際54万石の佐竹義宣は徳川方に加担しなかったため、慶長7年に減転封された。佐竹氏の後、水戸には佐倉より徳川家康の五男武田信吉が入ったが、翌年1603年に信吉が急死し、続いて家康の十男徳川頼宣が入る。1609年、頼宣の領地が家康のお膝元駿府に移され駿府藩が成立すると、頼宣のあとに同母弟の家康十一男徳川頼房が25万石で入った。頼房は28万石に加増を受け、のち元禄時代に検地を行って石高を35万石に改めたがこの改訂はかなり無理があったようである。水戸藩主は御三家の中でも唯一江戸常勤を定められ、将軍を補佐する役目を受け持っていた。そのため、水戸藩主は常時二重生活を強いられたうえ、格式を優先して実態の伴わない石直しを行ったため、内高が表高を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は、表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。

このように元代に曲や小説などの娯楽性の強い文学が隆盛した理由は、元代の科挙制度によるという。それまでの中国では文学とは漢詩と歴史であって、フィクションを取り扱った物は俗な物であり立派な人物が手を染めるべき物ではないとの考え方が強かったが、元代に入って科挙の実行数が激減した事により職を失った知識人達がそれまで見向きもしなかった曲を書くようになったというわけである。一方、漢詩の分野でも、宋の宗室の一人である趙孟頫、元の四大家と言われる虞集・楊載・范梈・掲傒斯などの名前が挙げられ、伝統的な文学が沈滞したわけではない。元の後期には非漢民族の詩人があらわれ、ムスリムの進士である薩都剌を元代最高の漢詩人と評価する意見も多い。書画の分野では、文学でも名をあげた趙孟頫がもっとも有名である。趙孟頫の書画は古典への復興を目指したもので、書は元代の版本はみな趙孟頫の書体に基づくといわれ、絵画は北宋以来の院体画を脱して呉興派と呼ばれる新潮流を開いた。元末には黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙の「元末四大家」が趙孟頫の画風を発展させ、南宗画とも後に区分される山水画の技法を確立していった。

巴蜀では死後も永くその統治を慕い、懐かしんだ。死後、廟を建立を求める声が各地から挙がり、特別に議して沔陽に立てられた。東晋の武将桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていたときに小吏を勤めていたという百歳をこえる老人に対し、桓温が「諸葛丞相今與誰比?」と問うた所、「諸葛在時、亦不覚異。自公没後、不見其比。」と答えたという。なお、桓温は簡文帝臨終の際に禅譲を考えていたことから簡文帝に「諸葛亮や王導のように皇太子を補佐してほしい」と遺詔された。小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳と孔明のみである。

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