関連文献と都市の外観
また635年に青海の吐谷渾を支配下に置き、チベット高原の吐蕃も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を和蕃公主として嫁がせるなどして懐柔に努めた。唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・パミール高原以西のトランスオクシアナにまで及ぶが、751年のタラス河畔の敗戦によって頓挫、中央アジアの支配権はイスラム帝国に譲ることになる。さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の787年には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、822年に唐と和睦した。
しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判がある。日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強い。これらの批判を受けた学者達は『春秋公羊伝』を経典とした公羊学を行うようになる。清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた漢詩の分野もまた相対化されて、必ずしも必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛びぬけた天才・名作は無い。一方、明代から引き継いで小説・戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志異』『紅楼夢』、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。
『三国志演義』では、「雲長又は関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。彼の出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、その出身地から塩の密売に関っていたといわれている。また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれている。官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った。その後、劉備・張飛と出会い、終生劉備に忠誠を尽くした。劉備が故郷で挙兵したとき、張飛とともに劉備の護衛官となった。劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけた。地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたといわれている。曹操が呂布を破った後、劉備が曹操を裏切って敗れ袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になった。曹操は関羽を偏将軍に任命し、非常に手厚く礼遇した。だが、関羽は功績を立てて曹操に恩返しをしてから、劉備の下へ戻ろうと考えていた。官渡の戦いでは、関羽は敵将の顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し、大軍の真っ只中で顔良を刺し殺し、顔良の首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になれる者はいなかったという。曹操は即刻上表して、漢寿亭侯に封じた。顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹の下にいる劉備の下へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。
世間話は体験談や実話として語られる民話である。昔話、伝説、世間話の違いを表にすると以下のとおりとなる。 狭義のおとぎ話は、太閤秀吉が抱えた御伽衆の語った面白話に起源があるとされる。御伽という風習そのものは別名夜伽にもあるように、古くからある徹夜で語り明かす伝統に基づいている。その晩に話される話を夜伽話、転じて御伽話とされるに至った。