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しかしその後も、突厥の残部はその後も度々唐に対して反抗し、682年に再び独立して突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において再び自立した。しかし突厥は745年にウイグルを中心とした部族連合に攻められて滅び、ウイグルが突厥にかわって中央アジアから北アジアにかけて広がる遊牧国家を建設する。ウイグルは唐に請われて安史の乱に援軍を送って以来唐に圧力をかけ続け、また高原経由の東西交易を中継して武力を背景に有利な取引を行い、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし8世紀にキルギスの攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は高原を統一する勢力は消滅する。唐は640年に高昌国を滅ぼしたのを初めとして、シルクロード沿いのオアシス国家を服属させて安西都護府を設置し、西域経営を行った。
秀吉の死はしばらくの間秘密とされることとなった。なお、秀吉の死因については現在も不明であるが、近年「脚気」だったという説も唱えられている。死の直後に通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに伏見城から阿弥陀ヶ峰に遺体を移し埋葬され、家督は秀頼が継いだ。辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」。この後、朝鮮では秀吉の死が伏せられていたが、日本軍は第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いでは次々と明・朝鮮軍を撃破していた。しかし秀吉の死去にともない、秀吉の目標であった朝鮮の服属と明の征服は意味を失い、朝鮮からの撤兵が決まったため、朝鮮出兵は終了した。この戦争は、朝鮮には国土の荒廃と軍民の大きな被害をもたらし、明には莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって滅亡の一因となった。また、出兵の中心であった西国大名達の疲弊は結果的に豊臣政権の滅亡をも早めた。秀吉の墓は壮麗に築かれたものの、没後の混乱のため、葬儀は行なわれなかった。
かつて安禄山軍から投降した三人の武将に授けた節度使職を元とする成徳軍・盧竜軍・天雄軍の三つの節度使は特に独立傾向が強く、節度使の地位を世襲化し、中央に納めるべき税を納めなかった。この三つを河朔三鎮と呼んでいる。憲宗は節度使勢力を抑えるために自立傾向の強い節度使に対して討伐を加え、その結果、反抗の度合いが薄くなった節度使の権限を縮小し、その任期を短くすることで再び反抗することを抑えようとした。この思惑は成功はするが、思わぬ副作用を生んだ。任期を短くされた節度使のポストは官僚が中央へ帰るときに使う賄賂を溜め込むための物となり、短い任期の中で厳しい収奪と兵士の食料・給料などの着服が行われるようになる。この影響は初めのうちは不満を持った兵士が兵乱を起こすことにより、上司たる節度使を追放し、自分達に都合の良い節度使を地位に据えるという形で現れる。このようになると新たに強い権限を得た上級兵士の間では不正が横行するようになり、その不正を是正するために強硬な姿勢を取った節度使もいたが、これも追放された。このような兵乱の代表が裘甫の乱である。