ギャラリーとゲーム
諸葛亮を評したものは、前述の司馬懿のほか、『三国志』の撰者である陳寿による評、『三国志』に注をつけた裴松之の「諸葛亮が魏に仕えて能力を発揮していたら、陳羣や司馬懿でも対抗できなかっただろう」、あるいは北宋の蘇軾の「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」や南宋の朱熹の「孟子以降の人物としては張良と諸葛亮がいるのみである」等、数多い。陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。しかしその一方で「毎年のように軍隊を動かしたのにあまり成功しなかったのは、応変の将略が得意ではなかったからだろうか」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。また、『三国志』に収録されている『諸葛氏集目録』で陳寿らは「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなく、敵のほうが兵数が多かったので、魏に対する北伐は成功しなかった」と評している。諸葛亮が奇策を用いなかったことについては、「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。…孔明に功を挙げられないのは、そもそも予想がつくことであり、仲達を必要とすることもない。」など批判する意見もある一方で、「蜀がもともと弱国で危ういことを知っていたから、慎重堅持して国を鎮めたのだ。」「主君が暗愚で敵国が強大であるので計画を変更して蜀を保持しようとしたまでのことだ。」「諸葛公はリスクが大きい計略だから用いなかったのではない。大義を標榜した出兵だったから策謀や詭計を用いなかったのだ。」などさまざまに擁護する意見もあり、にぎやかに議論が行われた。陳寿の評について「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝に載るが、信憑性は薄い。
後の鎖国政策につながるような閉鎖的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたと評価できる。なお、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたもので、彼に対する非難としては的を外している、また明が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。徳川将軍家を絶対君主とする、全国の諸大名をはじめ寺社勢力、朝廷そして天皇家までも実質支配下に置き、さらには外交面でも閉鎖的な徹底した中央集権的封建支配体制を築き上げたことは日本の近代化を遅れさせる一因となったという非難の声もある。また、これに関連して「生かさず殺さず」の姿勢で百姓を支配しようとした事やキリシタンに対する厳しい弾圧への批判も多い。家康は信長以上に朝廷をないがしろにしたと言われ、実際彼は朝廷を事実上支配下においていた。慶長11年には幕府の推挙無しに大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに関ヶ原の戦いの後、家康が親豊臣的であった後陽成天皇に譲位を要求した。そして天皇がこれに応じて弟の八条宮智仁親王に皇位を譲ろうとすると、家康はかつて親王が秀吉の猶子になったことがあるとして反対し、慶長16年には後陽成天皇を廃して、皇位を政仁親王に譲らせている。家康は信長でさえ行なわなかった天皇の廃立を行ない、さらに後水尾天皇を自らの主導で即位させたのをいいことに、家康存命中から秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として天皇家まで操ろうとしたのであるから始まっていたという。和子の入内が元和6年まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。
秀吉は大陸侵攻の準備をしつつ、周辺諸国へ服属入貢要求を繰り返した。秀吉における海外進出の構想は天正15年の九州遠征の時期に行われたとみられ、5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において「かうらい国へ御人しゆつかかのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗平定の意向もある事を示している。同年6月1日付き本願寺顕如に宛てた朱印状のなかで「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している。「我朝之覚」とは先例のことを指しており、具体的には神功皇后の三韓征伐の際の三韓服従の誓約あるいは天平召旅Ц天皇による新羅国王への入朝命令などと考えられる。この先例に倣って高麗国王は諸大名と同じように朝廷への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した。
「…、李?ら四将は命令を出して、董卓の遺体を探索させたら、ほんのわずかの骨や皮の切れ端しか見つけられなかったので、香木を彫って董卓の像を造り、遺体の代用とした。郿塢に持って行き、大々的に葬儀を行い王者の衣冠・棺を用いてこれを埋葬したところ、雷鳴がとどろき、豪雨によって平地は数尺の水におおわれ、落雷が董卓の遺体を粉々にした。李?は三度、埋葬し直したが、その都度、雷鳴はとどろき、雷によって董卓の遺体はもはやこの地上には何も残らなかった。董卓に対する天の怒りの甚だしさといえよう。」天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻真人山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。757年、聖武天皇の遺言によって立太子した道祖王に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇により立太子された。この立太子は、藤原仲麻呂の強い推挙によるものだった。大炊王は仲麻呂の子・真従の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。