文化放送と思想・宗教
29歳のとき、科挙の第一段階の解試において首席で合格したが、これが運悪く権力者秦檜の孫である秦塤を差し置いたことになり、中央試験である省試において横やりで不合格にされるという妨害を受けた。これにより科挙に及第するための資格を奪われ、エリートとしての出世の道を閉ざされた。しかし陸游は秦塤には遺恨はなく、後年陸游が四川に赴任する道中、建康に隠棲していた秦塤の邸宅を訪れている。秦塤も滞在中の陸游一行を厚くもてなしたらしく、陸游の家族に病人が出たとき、医師を呼んだり薬を届けたりしている。1158年に秦檜が亡くなると、34歳のとき福州寧徳県の主簿として、初めて出仕する。2年後、中央に呼ばれて文書を扱う役職に就き、孝宗が即位すると直々に進士の資格を賜った。金領内の民衆に決起を促す機密文書などの起草を担当したが、張浚の北伐が失敗して講和派が力を盛り返すと、普段の積極的な発言が仇となって地方に転出させられた。隆興府の通判となった後、張浚の強硬論を支持していたために免官となり、故郷の近くく三山に居を構え、4年近く田舎で暮らすことになった。1170年、虁州の通判に任命されたので、任地に赴くため5ヶ月かけて長江を遡った。そのときの紀行文が『入蜀記』である。虞允文が宰相になり、政府中央で主戦論が高まると、四川宣撫使となった王炎に招かれて配下となる。陸游は張りきって偵察などの任務を精力的に行うが、中央でまた講和論が強まったため王炎は中央に呼び戻され、陸游は蜀地方各地の知事代理を転々とすることになった。四川制置使の范成大の部下となり、身分の差を越えて親しく詩を交わすなど交流したが、そのことを含め、普段の態度が周囲から放埒にすぎると非難され辞職する。このとき号を放翁とし、成都の地で寓居した。
宋代史研究で最も研究が集中したのが前述の農村社会に対する佃戸制・主戸客戸制の研究である。上記のとおり、主戸客戸制に付いては主戸客戸制#研究史を佃戸制に付いては宮澤1993を参照のこと。都市社会に付いて。『東京夢華録』・『清明上河図』という極めて詳細なところまで踏み込んだ史料がある首都・開封に付いては詳しい研究が進められているが、地方都市になればなるほどそれが難しくなる傾向にある。本文で挙げた伊原1991・久保田2007以外では、中国の都市社会を通史で考える斯波『中国都市史』、『清明上河図』から見る伊原『清明上河図をよむ』などがある。経済では貨幣に付いての研究が豊富である。銅銭に付いては本文に挙げた宮崎1943・日野1983が、交子については加藤1953が代表的。
清は、一世一元の制と踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである。順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号・諡号をもって呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。ここでは狭義の意味の説話を説明する。ドイツ語のメルヘン/メルヒェン 、英語のフェアリーテール を含んでいる。メルヘンは、スティス・トンプソン以降、英語圏でもよく使われるようになった。
羽柴秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高と並んで戦国時代を代表する軍師としても知られる。天文13年9月11日、美濃斎藤氏の家臣で不破郡岩手城主・竹中重元の子として生まれる。永禄3年、父の死去により家督を継ぎ、美濃菩提山城主となって斎藤義龍に仕えたとも)。永禄4年に斎藤義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕える。