思想・宗教と都市の外観

家康はこの戦功により、信長から駿河国を与えられた。天正10年5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った。

また董卓の娘婿の牛輔は李?・郭汜・張済らを派遣して、中牟で朱儁を破り、兗州陳留郡・豫州潁川郡の諸県を攻略し、略奪・殺戮・誘拐を行った。しかし初平3年4月、董卓は司徒王允と呂布により暗殺された。親子の契りを結んだ呂布が董卓を殺害した原因について、正史では、小さな過失から呂布は董卓に殺されかけたことがあり、それ以来、恨みを持つようになったため、あるいは董卓の侍女と密通したことの発覚を恐れたためなどの記事がある。『演義』では、これを元に王允の養女貂蝉を呂布と董卓が奪い合うよう王允が仕向けた「連環の計」が描かれている。事件後、長安・郿に居た董旻、董璜をはじめとする董卓の一族は、全員が呂布の部下や袁一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる董卓の母親も殺された。 また、董卓によって殺された袁氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、董氏一族の遺体は集められて火をつけられた。董卓は肥満してたっぷりと脂肪が付いていたらしく、夜営の兵が戯れにへそに挿した灯心が数日間は燃えていたと書かれている。また、『御覧引董卓別伝』には 百姓は向かい合って喜び、舞い踊り、家中の指輪・衣服などを売ってお酒とごちそうを買い、お互いに祝い合い、そのため長安の酒と肉の値段は急騰した、とある。

在世中は匈奴・鮮卑の侵攻に悩まされ続けた。さらに、後漢末の混乱期から、匈奴・鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、従来の漢人住民とトラブルを起こすようになっていた。侍御史の郭欽は、呉を統一した機会にこれら異民族を辺境に戻すべきだと上奏したが、司馬炎はこれに聞く耳をもたなかった。太康5年以降、天災が相次ぎ、日食もしばしば起き、人心は荒廃した。こうした中、太熙元年夏4月、司馬炎は含章殿において56歳で死に、その遺体は峻陽陵に葬られた。司馬炎は、父・司馬昭の敷いた路線にしたがって晋王朝を創始した。司馬炎は天下を取るまでは英君だったが、天下を取った後は堕落していく。そのことが統一後の国家の基盤形成を怠ったことになり西晋が早く滅亡する要因ともなった。

かめゐど天神たいこはし かうつけ佐野ふなはしの古づ すほうの国きんたいはし

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