社会・経済と書誌情報
佐賀県唐津市生まれの幼少時代を九州・佐賀県で過ごす。実家は曾祖父の代から、唐津市で菓子屋を経営。父親は外国航路の船長だったため、会えるのは船が帰港する時だけ。その都度、横浜に会いに出かけていた。小学校5年の時に、神奈川県川崎市に転居。芝学園を経て、中央大学法学部法律学科入学。学生運動華やかなりし時代であり、全共闘運動に没入。在学中の1970年、純文学作品『明るい街へ』を同人誌に発表。同作が雑誌「新潮」に掲載され、学生作家としてデビューを果たす。1973年同大学卒業。PR誌の企画スタッフをしながら執筆を続ける。1981年、『弔鐘はるかなり』が出版。新人としては異例の“書き下ろし長編”による処女出版であり、二度目のデビューである。初版は8千部。翌1982年には、『逃がれの街』も出版。その後『眠りなき夜』、『さらば、荒野』、『檻』とヒット作を次々と生み出し、“ハードボイルド小説の旗手”として一躍人気作家に。
その後、孫権は西の蜀を領有することを考えるが、準備中に総大将の周瑜が病死して計画は頓挫し、その隙に先を越されて蜀は劉備に占拠された。210年、孫権は歩騭を交州刺史に任命して交州に派遣し、士燮を服属させ、呉巨を謀殺した。212年にはそれまでの呉から建業へと拠点を移した。この年からは連年、曹操との間に戦いが起こるが、双方共に戦果を得られなかった。
王慶戦の直後、公孫勝が一行を去り、蕭讓ら四人が朝廷に引き抜かれ、百八星が初めて欠ける。終焉の始まりであった。江南で大規模な叛乱を起こした方臘の討伐を命じられた梁山泊軍だが、連戦に次ぐ連戦でさすがに疲弊し、また方臘勢には石宝、鄧元覚といったこれまでとは比べ物にならない強敵が多く、さしもの梁山泊も苦戦を強いられた。ようやくこれを倒した時には多くの頭領が命を落とし、百八人いた仲間は三分の一にまで減っていた。凱旋の途中でも李俊、燕青らが脱盟、林冲、魯智深らが死亡し、都に戻ったときには仲間は二十七人に減っていた。二十七人は官職に就いてそれぞれの任地に向かう。朱仝のように出世するもの、呼延灼のようにさらなる敵国との戦いで戦死するもの、阮小七のように官職を剥奪され郷里に戻るもの、柴進のように宮仕えを嫌い郷里で隠遁するもの、戴宗のように出家するものなどそれぞれ違う余生を送った。一方、都の奸臣たちは宋江らの威勢を恐れついに彼らを始末する事にする。まず、都に盧俊義を呼び寄せて毒殺、さらに宋江の任地に帝の賜杯と称して毒酒を送る。宋江は、自分が死んだとなるともっとも謀反を起こす可能性の高い李逵を呼び寄せると二人でこれを仰いだ。夢枕に宋江の死を知った呉用と花栄も自害し、梁山泊はここに滅んだのであった。その後、帝は夢で宋江らの死と奸臣たちの悪巧みを知るが、巧みに言い逃れた奸臣たちは叱責を受けただけで済み、宋江らの墓の前に帝は自ら筆を振るってその忠心を称える廟を建て、百八人を象った像を安置した。この廟は度々霊験を表し、土地のものによって末永く祭られたのであった。ベトナムの大衆演劇―サンペク・エイタイ遊所での遊びについて書かれたものがほとんどで、粋を理想とし、遊女と客の駆け引きを描写したり、野暮な客を笑いのめした内容が主であり、話を楽しむためだけでなく、実用的な遊び方指南や一種のガイド本として読まれた。
「日本」という国家が形成されていく過程を描いた『日本書紀』とその国家が形成された後の歩みを描いた『続日本史』以後の勅撰国史ではその内容に違いが生じてくる。また、律令国家が整えられたことにより、内記や外記、図書寮などに不十分ながらも記録や公文書が蒐集される仕組が形成されてきた事が記録の充実をもたらすことになる。全般に記述が簡潔で、事件の要点のみを記して詳細に及ばない。簡潔が過ぎて養老律令のような重要事件が脱落した例が見られる。一部の人物の死亡記事に簡単な略伝を付し、これは後続の史書に踏襲された。このような略伝を特に薨伝という。政治的配慮は、桓武天皇の治世の記述において顕著である。天皇の心痛となった早良親王廃太子の記事は、事件の発端となった藤原種継暗殺事件とともに、いったん記載されたものが後に削除された。削除部は平城天皇の代に復活したが、嵯峨天皇によって再び消されて今に至る。消された部分は『日本紀略』に採録されている。この背景には早良親王が怨霊になったとする説と関係があると言われている。