海上交易と倭寇と料理店
1948年に施行された「風俗営業取締法」は、1984年に公布された改正法により、大幅に内容が改正された「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」となり、ここにおいて性風俗営業の営業地域が大幅に制限されるに至った。特に個室付き浴場、個室マッサージ、モーテル類等は事実上人の活動する区域においては営業が不可能となったが、同法律を受けて東京都が施行した「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」においては、吉原の実情などを考慮し、「特例地域」として、現行の建物を使用する限りは営業を継続出来ることとなった。従って新規にソープランドビルを建設して営業することは不可能であるが、現行の建物を改装等して継続使用する限りはソープランドを経営することが出来る。かつて、都内では「新宿区歌舞伎町の一部」及び「豊島区北池袋の一部」にも同様の特例措置が執られていたが、現在は条例の改正によってソープランドの特例処置は台東区千束四丁目の16番から32番、41番から48番に限られている。風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例第十条一PDF参照。
酒を造るに当たり、原料としてはもち米が普通。これに水を加えて発酵させ、漿を作る。これに麹を加えて酒を作る。#専売で上述したように宋代では政府だけが麹を作り、これを酒造業者に卸すことで酒を専売品としていた。小麦粉から麹を主原料として作る酒を北酒、米から麹を作るのを南酒と呼んだ。また麹には様々な薬草が混ぜられ、それによって武陵桃源酒とか冷泉酒などの種類に分かれている。またミカン・ブドウ・ウメ・レイシなどの果実の名前を冠した酒も見受けられる。首都・開封の大通りには料理店・酒楼が多数軒を連ね、その正確な数はとても分からないほどであるという。店に入ると行菜と呼ばれるボーイが箸と紙を持って注文を聞きにくる。この時に熱い・冷たい・脂の多少など好みを細かく注文することも出来る。もし注文が間違っていたりした場合には店主がこれを叱り付け、減棒や酷いときには首になったという。また店で出す料理以外にも碗などに料理を入れて持ってくる物売りが出入りしており、これも楽しむことが出来た。ただし半分押し売り気味に売りつけていくことも多かったようである。
張邈は呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだために袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にそのことを言われる度に張邈を庇っていたが、張邈の方は曹操が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切ったとされている。張邈と曹操とは古くからの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。曹操は兗州に戻り、呂布を攻めたが敗れ、青州兵は大打撃を受けた上に、曹操自身も大火傷を負った。幸い荀彧・程昱・夏侯惇らが本拠地を守り抜き、飛蝗による蝗害のために飢饉が起き、兵糧の尽き果てた呂布が軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくるが、程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、イナゴと旱魃のため穀物の値段は1石50余万銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。そんな中、徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。
諸葛亮の死後、蜀軍は全軍退却することになったが、その途中で魏延と楊儀との間に争いが起こり、楊儀が勝って魏延は殺された。蜀軍が引き揚げた後、陣地の跡を犬閥鍛欧靴拭諸葛亮は、漢中の定軍山に魏が見えるように葬られたという。遺言により質素な墓とされた。諸葛亮が死去したという知らせを聞いた李厳は、「もうこれで復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去したという。また同じく官位を剥奪された廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうのだ」といって涙を流したという。