家系図と概説書
賈仲明の『録鬼簿続編』では「戯曲を数十曲書いたが、人付き合いの悪い性格で、最後には行方不明になってしまった」と書かれている。清代の俗説では、元末の混乱時に張士誠に仕えたとされ、「赤壁の戦いの描写は、朱元璋と陳友諒のハ陽湖の戦いをモデルにしていた」と言われる。しかし、彼に関する資料がとても少ないため、「三国志演義は、多くの講談師達が羅貫中の名を借りて出版した」という説もある。著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。
227年から蜀漢の諸葛亮による魏に対する北伐作戦が開始される。同盟関係にある呉でもこれを援護するために何度か軍を出した。なお、実質的に両者の同盟は対等であるが、劉禅は皇帝、孫権は王であったことから、蜀の側は名目上、呉を臣下として扱っていたようである。228年、周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、曹休を石亭に誘い出した。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い、大勝した。229年、孫権は皇帝に即位して元号を黄龍と改め、建業に遷都した。蜀漢では、原則論として孫権の即位を認めるべきではないから同盟を破棄すべきとの意見が続出したが、諸葛亮の説得で孫権の即位を認め、改めて対等同盟を結んだ。また、魏を打ち破った後のその支配区分として、徐州、豫州、幽州、青州は呉が、并州、涼州、冀州、兗州は蜀漢が支配するものとし、司隷は函谷関を境界線として、東は呉、西は蜀漢が占める取り決めをかわした。幽州は呉にとって飛び地となるが、これは海上からの侵攻を想定したものではないかといわれている。次に触れる公孫氏などとの交渉も、海上より船を利用したものであった。
208年、孫権は父の仇である黄祖を討伐し、討ち取った。その頃、北の曹操は官渡の戦いの勝利により旧袁紹領をすべて併呑し、華北をほぼ統一していた。更に中国統一を目指し、208年に軍を南下させてきた。荊州の劉表はすでに病死しており、その後を継いだ劉琮は曹操に対してすぐに降伏した。劉琮の降伏を受けた曹操は、劉表の元に身を寄せていた劉備を追い散らし、江東へと侵攻してきた。これに対して孫権は劉備と同盟を結び、周瑜・程普を大都督として赤壁で曹操軍と激突し、黄蓋の火攻めにより、これに勝利した。敗北した曹操は北に引き上げて、以後は華北の経営を中心に進めていき、長江以南での孫呉勢力の覇権が確立された。更に孫権は曹操軍がいなくなった荊州をも領有しようと軍を出すが、荊州は劉表の長子の劉琦を立てて劉備が占拠していた。赤壁で主に戦ったのは孫呉であり、より多くの戦利品を得るべきと考えた孫権は、劉備に対して抗議するが、劉備はのらりくらりとこの追及をかわし、結局孫権は荊州北部の江陵のみを得ただけとなった。以後、このことは両者の間での懸案となるが、曹操との敵対状態が続いている中で劉備とも事を構えるのは無謀であると考えた孫権は、妹の孫夫人を劉備に嫁がせて友好関係を固めて、魯粛の提案に従い、荊州の数郡を劉備に貸し与えた。
広く流布している説として、父・木下弥右衛門の戦死後、母・なかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て侍になるために駿河国に行ったとされる。『太閤素性記』によると7歳で実父弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳の時亡父の遺産の一部をもらい家を出て放浪したとなっている。しかし、『太閤記』では竹阿弥を秀吉の実父としている。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻ねねの母方の姓とする説もある。秀吉の出自については、ほかに大工・鍛冶等の技術者集団や行商人であったとする非農業民説、水野氏説、また漂泊民の山窩出身説などがあるが、真相は不明である。秀吉本人は後に、母親である大政所の父は萩の中納言であり、自身も帝の血を引いていると宣伝したが、これは史実だとは考えられていない。はじめ木下 藤吉郎と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱に仕え、今川家の陪臣となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した。その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年に秀吉より丹波国と河内国内に1600石を与えられ、天正18年には1万6000石と頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。