関連事項と国際関係
1189年、孝宗が退位してその子・光宗が即位するが、暗愚であったため、1194年の孝宗の死後、趙汝愚と韓侂冑らが協力して光宗を退位させた。光宗の後に寧宗が即位すると、趙汝愚の与党だった朱熹は政治顧問に抜擢された。しかし功労者となった韓侂冑と趙汝愚が対立し、趙汝愚が失脚すると朱熹も罷免されてしまい、わずか40日あまり中央に出仕しただけに終わった。その後の政界では韓侂冑が独裁的な権限を握る。1196年、権力をより強固にするため、韓侂冑らは朱熹の朱子学に反対する一派を抱き込んで「偽学の禁」と呼ばれる弾圧を始めた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そして1200年、そうした不遇の中で朱熹は71歳の生涯を閉じたのである。『論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』のいわゆる「四書」に注釈を施した。これは後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。
この頃になると国内では孫晧に対する反乱も起きるようになるが、孫晧は省みずに後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問して殺していた。そんな中で陸遜の息子の陸抗や朱績や丁奉が呉の防衛を支えていた。272年には歩闡が呉に背き、西晋に寝返ったが、陸抗がこの反乱を鎮圧した。270年に朱績が、271年には丁奉が、さらに274年に陸抗が死去すると、もはや呉には柱となる人材はいなくなった。そして279年、晋は20万という大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。呉の将兵には孫晧に見切りをつけ、戦わずして晋に降る者も多く、翌280年3月に晋軍は建業に達して孫晧は降伏、呉は滅亡した。呉の皇帝の孫権は236年に五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行し、貨幣経済の充実に努めた。
2006年4月からは、講談社とTBSは「ドラマ原作大賞」を共同で創設し、新たなドラマと作家の発掘を行っている。講談社は、朝日新聞社、東映、九州朝日放送などに次いで、テレビ朝日の1.36%の株式を保有する株主である。なお、講談社の野間佐和子社長は、1988年6月よりテレビ朝日の監査役を務めている。文学作品賞の江戸川乱歩賞について、両社は共に後援企業として名を連ねている。
その後、福岡県教育委員会、九州歴史資料館、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。こうした状況は、政治的中心の周囲に次第に都市が形成されていく過程と理解できる。もはや鏡山案はそのままの形では成り立たない状況となっており、上記のような発掘成果を受けた新たな条坊復元案が金田章裕や井上信正などによって提示されている。