吉良家剣客の子孫との噂ありと生活費用
永禄5年には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ。翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。西三河を平定しかけた頃、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧した。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年までには東三河・奥三河を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い、新田氏支流得川氏系統の清和源氏であることも公認させた。
武成帝は即位早々に息子の高緯に譲位し、その後は上皇として政務を取るが、この時代には個人的なつながりを持った寵臣たちが幅を利かすようになった。この中で後主は周りの讒言を信じて国防に不可欠であった斛律光と蘭陵王の2人を殺してしまい、北周はこれを好機と見て北斉へと侵攻してきた。高緯は捕らえられて、後に自殺を強いられた。北斉の滅亡は577年のことである。西魏の政権を掌握した宇文泰は武川鎮の出身で、北魏末には陝西一帯を支配する大軍閥となっていた。北周・後の隋・唐の中枢部はほぼ全てがこの武川鎮出身者で占められており、以後の中国を長い間この集団が支配することになる。宇文泰は新たに二十四軍制を創始した。この制度は軍の組織を上から柱国 - 大将軍 - 開府という系列にまとめ、その頂点に宇文泰が立つというものである。この制度は後の府兵制の元となったといわれる。
漢文・唐詩・宋詞・元曲と後世に言われるように宋は五代を引き継いで、詞が大きく隆盛した。詞は唐代の燕楽を源流とする。宴楽という語の示すように宴席で演奏される曲に付けた歌謡が詞である。#詩の項目で述べたように宋代になると詩は士大夫の物とされたために抑制的で叙事的なものになり、叙情的な詩は少なくなった。これに対して詞は叙情的な物が多く、また詩に於いては扱うことがタブーとされた恋愛に関する歌など俗なテーマも多く取り入れており、また七言や五言といった定型詩とは違って元の曲に合わせて謡われるために句の長短が様々であるのが特徴である。宋初に於いては寇準などの詞が挙げられるが、仁宗朝になってからが真の隆盛期といえる。この時期の詞人としては晏殊・欧陽脩・張先・柳永らの名前が挙がり、特に後者二人は詞の新しい境地を開いた人物として重要である。
明治維新後に家康の悪評が高まったのは、明治政府が江戸幕府を倒して建てられた政権であり、江戸幕府を悪とするのが明治政府にとって都合が良いことであったからと言える。特に太平洋戦争前は、秀吉の朝鮮出兵が大日本帝国における、帝国主義的な領土拡大と合致し、「朝鮮征伐」と称されるほど是とされていたため、「秀吉は清君、それに背いた家康は奸君」と偏った評価をされることが多かった。この時期は家康らの尊敬の対象であった平将門や足利尊氏に対しても朝廷に刃向かった逆賊として批判的な評価がなされていた時期である。山岡荘八の小説『徳川家康』では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、泰平の世を願う求道者として描かれている。この小説によって家康への再評価が始まり、それは現在も続いている。そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もある。 一方、司馬遼太郎は家康について記した小説『覇王の家』あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」とし、「民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である。天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、あくまでその議論のまとめ役や政策実行の代表者に過ぎない、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。