北宋期の展開と参考書籍
更に翌年春、第三次の北伐を決行する。武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。これに対して魏将郭淮が救援に向かったが、諸葛亮自身が出撃して彼の退路を断とうとしたので撤退した。陳式は無事に武都・陰平の二郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰する。231年春2月、第四次の北伐を行い司馬懿と対戦し、局地的に勝利したが、長雨が続き、食糧輸送が途絶えたことにより撤退する。この撤退の時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺している。食糧輸送の一切を監督していた李平は、諸葛亮を呼び戻させる一方、彼が帰還したところで「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」と聞き返すなど、自らの失敗をごまかそうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を出して李平の嘘を見破り、彼を庶民に落とした。234年春2月、第五次、最後の北伐に出た。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣する。しかし、頼りにしていた呉が荊州と合肥方面の戦いにおいて魏に敗れ、司馬懿は大軍を擁しながら防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。病に侵されていた諸葛亮は、秋8月、陣中に没した。享年54。
永泰 765年-766年 大暦 766年-779年貞元 785年-805年
杜甫の人生からわかるように、彼はその当時の名門出の詩人達の大半が思うように仕官して政治を行いたいという願望をもっていたが、それが適わない夢と終わってしまったことにより、少しでも社会を良くしようと思う気持ちが詩に大きく影響している。杜甫の詩の特徴としては社会の現状を直視したリアリズム的な歌を作詩しており、同時代の親友でもあり、幻想的で明るい歌を作詩する李白とはある意味反対の詩風を持っていた。詩史とも呼ばれるその叙述姿勢は、後には白居易の諷喩詩等によって受け継がれていくこととなる。安史の乱により、世の中が崩壊していくのをまざまざと体験した頃の杜甫は悲しみに満ちた詩を作詩している。この頃の代表歌なのが『春望』である。安史の乱が一通り治まると今度は地方に左遷された上に飢饉による飢えにより一層悲しみを越えた絶望感が詩から伝わってくる。
同年夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還する。翌延元3年/建武5年閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。『太平記』においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている。義貞がここで戦死したことは史実であるが、この死に方は事実とは考えられず、『史記』の項羽の最期や『平家物語』の義仲の最期の記述にヒントを得た『太平記』作者の創作であると思われる。首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこの時足利氏の手に渡ったという。年月日不明ながら、正二位を贈位。大納言の贈官を受ける。なお、江戸時代の明暦2年にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、領主である福井藩主松平光通に献上した。象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家にて保管された。明治維新の後、義貞を祀る藤島神社を創建した際、越前松平家より神社宝物として献納された。兜は国の重要文化財に指定されている。同時代では、南朝を主導していた北畠親房との確執があったとも言われ、親房の『神皇正統記』では「上野国に源義貞と云ふ者あり。高氏が一族也」と足利尊氏より格下の扱いを受け否定的に書かれている。また、『増鏡』には、「高氏の末の一族なる、新田小四郎義貞といふ者、今の高氏の子四つになりけるを大将軍にして、武蔵国よりいくさを起してけり」と書かれており、通称の小太郎を小四郎と、挙兵地の上野国を武蔵国と、それぞれ誤って述べられているばかりか、足利千寿王を鎌倉攻めの大将に立てたことにされてしまっている。