西方・南方と書誌情報

曹操がこと戦役において、袁紹・呂布・袁術ら他の群雄と比べ瞭然として勝っていた部分は、部下の進言・献策を的確に見極めて取捨選択し、利己心無しに受け入れる能力と言える。多くの重要な戦役においては、それらによって曹操が一時不利な状況から勝利を収めた例が少なくない。しかし、曹操は利害が絡まないと厳しい対応を取る事も少なくなく、不遜な態度をとったことを理由に許攸・孔融・婁圭・崔琰を処刑したり自害させている。曹操は適材適所もわきまえており、『魏書』には「任された将兵は立場をよく理解し、自らの武と奇策をもって難に向かった」との記述が残る。荀彧によれば、曹操軍の軍法軍令は明白で、賞罰も的確に行われていた。曹操は「槊を横たえて詩を賦す」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの文人たちを配下に集めて文学を奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。曹操は軍隊を率いること30数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞にしたという。その記述の通り、現存する曹操の詩は、いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞であり、代表的な作品として『文選』に収録された「短歌行」などがある。

第4作までは、1国に最低1人は武将を配置しないと、どの君主も支配していない空白地になった。そのため、後半の年代では頭数不足によってクリア不能に陥る事態もあり得た。初期の作品では特に後半の年代は人材不足で、第4作で初期の人物を削り、代わりに後期の人物を追加する調整を行っている。第5作以降は、一度いずれかの君主の支配下に入った都市は、武将不在となっても空白地にならなくなり、1勢力に最低1人残っていればクリア可能になった。もちろん、武将不在都市に攻め込まれた場合、自動的にその都市は奪われてしまう。当初、本シリーズの時代背景や登場する人物の能力や設定は、小説『三国志演義』や、吉川英治の小説『三国志』など『演義』をベースにした作品に準拠していた。登場する人物は『演義』や『吉川三国志』に登場する人物に限られ、しかも後漢末期の人物がほとんどであった。このため、『三國志』というタイトルでありながら、実際に三国鼎立となった220年以降は人物が少なく、ゲームを進めることが困難になることもあった。また、時代背景として、『三國志II』以降、ある一定の条件下で「歴史イベント」が起こるようになったが、これも演義のストーリーを敷衍したものであった。

周大荒が当時の政情に鑑みて、蜀を中国国民党に、魏を腐敗した北洋軍閥に、孔明の北伐を国民革命軍のそれに擬えたとする説もある。物語内にも度々当時の政治家や軍閥への皮肉が登場する。また、諸葛亮が統一のためとはいえ、多くの命を奪った自責の念に苦しむなど、著者の反戦思想とも思える描写もある。陝西延安衛柳樹澗堡の出身。もとは軍籍にあったが法を犯して除籍された。崇禎3年に王嘉胤が反乱を起こすと、米脂県にいた張献忠はこれに呼応し八大王を自称した。間もなく高迎祥の下に投じて東方へ進出し、山西、河南を転戦した。後に李自成との反目から高迎祥の敗死を招くも、黄河流域へ進んだ李自成と袂を分かち長江流域へ攻め込み湖南、江西から四川に侵入して独立勢力を形成した。1637年には明軍の総兵官・左良玉の部隊の攻撃により張献忠の起義軍は大きな損害を受け本人も負傷した。

文帝は453年、皇太子劉劭によって殺される。この反乱者たちを倒して即位したのが孝武帝である。孝武帝は貴族勢力の抑制を狙って税制の改革や寒人層の登用などを行う。しかし孝武帝の死後は身内内での血みどろの殺し合いとなり、権力争いが激化した。特に第6代明帝は血族28人を殺害し、家臣も少しでも疑いがあれば殺すなどの暴政を行い、宋の衰退が決定的となった。この中で宋の創始者・劉裕と同じように軍事で功績を挙げて台頭してきたのが蕭道成である。蕭道成は明帝の後を継いだ廃帝昱を殺して順帝を擁立し、この皇帝から禅譲を受けて斉を建国した。蕭道成の後を継いだ第2代武帝は何度か北魏に対しての攻撃をかけるが、これは痛み分けに終わる。しかし武帝死後に後継争いで混乱が起き、最終的に蕭道成の兄の子である蕭鸞が即位するが、この間隙を狙った北魏により山東を含んだ淮河以北を奪われてしまう。

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