産業の変化と北斎通り

1130年、この尤渓県にて朱熹が生まれる。その後、朱松は南宋の朝廷に入り、国史編纂の仕事に就くが、宰相秦檜の金に対する講和策に反対して中央を追い出されている。1140年に州知事に任命されるが、これを辞退して祠官の職を希望して認められ、以後は学問に専念して、1143年に47歳で死去した。父と同じく学問の道に入った朱熹は、9歳にして『孟子』を読破し、病床の父から『論語』を学んでいた。父が病死した後は父の遺言により、胡憲・劉勉之・劉子翬の三者に師事するようになる。

さらに清仏戦争、日清戦争、と相次ぐ戦争によって次つぎと冊封国を失い、冊封体制に基づく東アジアの伝統的な国際秩序は崩れた。また義和団の乱が起こり、列強による勢力分割や主要な港湾の租借がおこなわれ、半植民地化が進んだ。皇帝の姓を愛新覚羅という。本来の満洲語ではAisin gioroと発音し、 アイシンは「金」、ギョロは「氏」ということで、即ち「金氏」を意味する。清は、一世一元の制と踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである。順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号・諡号をもって呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。

姓は朱、諱は熹、字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。朱子は尊称である。祖籍は徽州婺源県。1130年、南剣州尤渓県に生まれ、1200年、建陽の考停にて没した。儒教の体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。朱熹の祖先は五代十国時代に呉に仕えた朱瓌で、婺源の守備に当たったことからこの地に籍を置くようになったと言う。 その八世の子孫が朱熹の父・朱松である。

これらの漢民族の進出は多くの場合、現地の民族との摩擦を引き起こし、時に現地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル族・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に勢力を減退させていった。また鄭一族の降伏により版図に入った台湾にも数多くが進出し、開発が進む一方で原住民達は山間部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲族の保護の意味から漢民族の移住を禁止していたが、19世紀末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると領土権の保持と防衛のために禁を解除し、この地も漢民族の農地が広がることになる。清初には税制も明から一条鞭法を引き継いでいたが地丁銀制に切り替えた。これはそれまでが人頭税・土地税の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷紳勢力には免税特権が与えられており、また人頭税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。それと共に戸籍制度もそれまでの里甲制から変えて、新しく作り直した。明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影響で海外からの銀の流入が止まって、極端なデフレ状態に陥って「銀荒穀賤」と呼ばれて民衆は勿論、有力者の中にも破綻するものが相次いだ。この傾向は鄭氏政権の崩壊によって海禁政策が緩和されるとともに落ち着くようになる。

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