家康と同時代の人々と領土の拡大

完訳は2001年−2007年に、吉川忠夫による原文・読み下し・訓注で全10巻と別巻<人名索引・地名索引>を、岩波書店で刊行。2002年から汲古書院で渡邉義浩等により、原文・読み下し・訓注・現代語訳入りで刊行中である。二十四史の中でも『後漢書』に先んじて撰された『史記』・『漢書』・『三国志』はいずれも非常に高い評価がある。『後漢書』は『史記』・『漢書』を手本として二者には及ばないが、かなりの高い評価を得ており、『史記』・『漢書』と併せて三史、あるいは『三国志』を加えて四史と呼ばれている。また八家後漢書がいずれも散逸し、范曄の『後漢書』のみが残ったと言う事実が范曄『後漢書』に対する評価を表しているともいえる。

このような村市は定期市が主であるが、2kmから4.5kmの間隔で存在しており、農民たちは売買が行いたいと思えばいつでも利用できた。このような市には人が集まり、その人を当て込んだ食堂・茶屋・宿屋などが作られ、一つの小都市となる。唐代までの都市とは異なる自然発生的な小都市である。この段階では行政上の取り扱いは農村と同じ「郷村」であるが、発達して一定以上の大きさになると、政治の側も無視するわけにはいかなくなり、これを行政上「半公認」する。このような都市を鎮市と呼ぶ。農民たちが市に顔を出せば、当然その間に他所の村の者とも知り合いになり、交流が生まれることになる。その内に親密さは増し、共に酒を飲んだり、祭りを楽しんだり、通婚なども行われるようになるであろう。その祭りや結婚式が行われるのは農村を結ぶ中心の市で行われる。このように当時の農村は他の農村と市を中心にして結合していたのである。唐代までの社会は農村を最小単位として成り立っていた。これに対して宋代以降の社会はこの市と農村との結合体が最小単位と考えられる。G・ウィリアム・スキナーはこの中心の市場を Standard Marketing Town と名づけた。

均田制が崩壊して、両税法に変わった。このことは別の面から見れば大土地所有を公認したことになる。荘園の大きさは大体10頃から100頃の大きさで、雇い入れた客戸あるいは奴婢に田地の耕作や農産物の加工などに当たらせる。またその土地を小作農に貸し出す場合もあり、その際に種籾や耕牛などを貸し出すが、その借り賃で破産してそのまま荘園に囲い込まれる例も多かった。後期以降は新興地主層が荘園の主な経営者となるが、他にも新たに台頭した節度使勢力も積極的に荘園経営に取り組み、財力を蓄えた。

水位の違う運河を行き来するために互いの水位を調節する閘門が設けられていた。これら運河を使うことにより宋全土の4分の3にいくことが出来た。首都・開封はこの運河を使用することを前提にした都市であり、内部を運河が貫通している。またそれまではイスラム商人の独擅場であった海洋航路にも宋商人が進出するようになった。無論、単に航路があっても何の役にも立たずその上を航行する運船業があって初めて物流が行われる。宋代の船の大きさは米の積載量である石で表される。外洋船では大きなもので5000石で乗組員が5-6百人、中型で2000石で2-3百人、小さなものは数十人から十数人規模のものもある。河を航行する船では航行する河およびその役割によって大きな差異があり、20000石を積める大船もあれば200石規模の小船もあった。

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