夷陵の戦いと行政・治安関連

『後周書』にある「享茲大命、保有万国」から。8代将軍徳川吉宗による享保の改革。

当初は自社刊行物の囲い込みの意識が強かったが、1992年のちくま学芸文庫創刊からは、学術的なものはそちらに回して、一般書の比重が高くなっている。また、個人全集に強い版元のありかたを利用して、文庫サイズの個人全集が充実しているのも特色である。全て分売されるので、読者は好きな巻だけを買うことができ、宮沢賢治の場合は童話の収録された巻の売れ行きがよく、詩集の収録された巻は弱い。ただし、刊行後20年以上を経過しているので、品切れになっているものもけっこうある。またマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を文庫化している点も特筆されるべきである。このように古典的な文学に強い一方、赤瀬川原平の『老人力』のような話題作や都築響一の『珍日本紀行』などの写真集も擁する、硬軟両面を併せ持つ文庫である。ちくま文庫は二種類に分けられ、「翻訳、古典、シリーズ」を扱う月マークと「現代日本の小説、エッセイ、評論、ノンフイクションほか」を扱う太陽マークが扉ページに描かれている。

町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。なお、この改元の際に朝廷や幕府の一部には翌年は辛酉革命による改元の年なのに、1年足らずのための改元はおかしいとする異論が出されたものの、黒船来航以来の国内の混乱に危機感を抱いた孝明天皇の強い意向を受けて行われたのだという。『後漢書』馬融伝の「豊千億之子孫、歴万載而永延」から。

清は北京に入った後は崇禎帝の葬儀を手厚く営み、李自成によって殺された崇禎帝の仇を取るとの名目を持って自らの中国支配を正当化した。このために清代を通じて李自成は反逆者とされ、清滅亡後もしばらくは流賊の頭とみる低い評価が続いたが、1944年に郭沫若が李自成を起義軍として再評価する論を唱え、当初は流賊説を取っていた毛沢東がこれを承けて李自成を農民反乱指導者として評価する見解を出したことから、李自成の再評価と「大順」王朝の研究が進められるようになった。現在でも北京市民の間に伝わる李自成にまつわる逸話がある。洪秀全は農村の読書人の家庭に生まれ科挙及第を目指していたが、郷試に失敗し、特に25歳の時の3度目の失敗では失望感から病床についている。その病床で老人より現世の妖魔を取り除くべく派遣したとの幻覚を見る。しかし科挙に執着していた洪秀全は6年後の1843年春に再度郷試に臨むも落第した。この時梁発の『勧世良言』の影響を受けた洪秀全は孔孟の書を捨て、キリスト教へ改宗し儒生としての人生に終止符を打った。『聖書』の学習経験のなかった洪秀全は、自らの解釈によるキリスト教の教義として拝上帝教を説き始めた。拝上帝教は入信すれば男女問わず平等であり、男性は兄弟、女性は姉妹とし、ヤハウェを天父、キリストを天兄と称した。これはキリスト教教義との差異が大きく、洪秀全をキリストの弟、ヤハウェの次子とし、人間界に至って神の意思を実行する者としている。

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