概説書と都市の様相
宋代史研究で最も研究が集中したのが前述の農村社会に対する佃戸制・主戸客戸制の研究である。上記のとおり、主戸客戸制に付いては主戸客戸制#研究史を佃戸制に付いては宮澤1993を参照のこと。都市社会に付いて。『東京夢華録』・『清明上河図』という極めて詳細なところまで踏み込んだ史料がある首都・開封に付いては詳しい研究が進められているが、地方都市になればなるほどそれが難しくなる傾向にある。本文で挙げた伊原1991・久保田2007以外では、中国の都市社会を通史で考える斯波『中国都市史』、『清明上河図』から見る伊原『清明上河図をよむ』などがある。経済では貨幣に付いての研究が豊富である。銅銭に付いては本文に挙げた宮崎1943・日野1983が、交子については加藤1953が代表的。
南宋の院体画は華北山水画の流れを汲むのであるが、本来華北の厳しい自然を描くための技法が江南の豊かな自然を題材とするようになったことで何らかのズレが生じたことが絵が狭くなってしまったことの一因と考えられる。むしろ南宋の山水画で評価が高いのは画院の外、文人画および禅僧たちの手によるものである。画院の華北山水に対してこちらには江南山水および米法山水が受け継がれ、淡墨表現と連想による手法が特徴的である。宋迪・知融などの名が挙がる。花鳥画については現存する数が極端に少なく、日本に輸入されたものが多いが、床の間に飾るためにトリミングされたものが多く、全体の傾向が捉えにくい。前述のように黄氏体と徐氏体があったが、南宋になって輪郭は鉤勒・色彩は没骨という風にこの二つが融合することになった。
呉は、揚州の非漢民族である山越を何度も討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士としての資質の高い者を大量に徴兵した。魏の鄧艾は「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、軍勢・勢力を頼れば、独立できる力を持っている」と述べている。川勝義雄は「呉の将軍は親子兄弟間で兵の世襲が認められていた。この制度は世兵制と呼ばれている。呉の将軍達は世襲を許された私兵的な屯田軍を持ち、未開発地域で厳しい軍政支配を行っていた。屯田軍は土地開発の尖兵であった」としている。
ただし、一方でこれらの批判に対して、紀伝体としての体裁を整えるためにやむを得なかったとする意見も根強い。「魏国志」30巻、「蜀国志」15巻、「呉国志」20巻、計65巻から成る。この他、陳寿の自序が付されていたといわれるが、現存しない。また、表や志が存在しない。「魏書」東夷伝倭人の条は「魏志倭人伝」と通称され、そこに邪馬台国の記述が見られる。