主題歌と陶磁器

北宋末期の徽宗時代、『東京夢華録』に記される夜を徹しての市が有名であるが、これは逆に言えばそれだけ禁令が緩んできたということであり、治安の悪化と表裏一体であった。徽宗時代の爛熟と乱脈との象徴といえる。前述したように都市のあちこちに店屋があったのであるが、当然都市の中で盛んなところと寂れたところに分化する。開封には相国寺という寺があり、大運河によってここまで入ってくることが出来た。つまりここで荷降しをすることになるので、周囲には仲買人や直接買い付けに来る商人たちで大変にぎわった。臨安では宮城から北に伸びる大通りの中間部分が最も栄えており、ここに食器店・貴金属店・薬剤店などのが集中的に立ち並んだ。

奈良県奈良市山陵町にある高野陵と比定されているが、孝謙天皇陵と比定されている佐紀高塚山古墳は佐紀盾列古墳群を構成する前方後円墳であり、その比定は疑問視されている。103:後土御門天皇 藤原基経の家司を務める。菅原是善門下で学を修め、文章得業生となり、元慶3年には陽成天皇の侍読の任に当たるなど、次第に学者としての名声を確立した。

その仏教では唐代の『荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉関廟記』に、隋代の智顗禅師の元に関羽が現れて、僧坊を提供し守護神となったとする話が載り、南宋期に書かれた『仏祖統紀』には智顗禅師の元に関羽の霊が訪れ、仏法に帰依したいと請われた禅師が煬帝に奏して、関羽を「伽藍神」に封じたとしている。現在では「関帝菩薩」とも呼ばれている。儒教では五文昌の一人「文衡聖帝」とされて、「山西夫子」と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の徽宗皇帝が爵諡の「忠恵公」後に「武安王」として封じ、「崇寧真君」とした。その後、南宋期には「義勇武安王」とされたと伝わる。明初には神号「協天護国忠義関聖大帝」とされてから、熹宗皇帝が「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」に封じ、清代に入ると順治帝が「忠義神武関聖大帝」として、後に宣帝が「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」と次々と追贈している。多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見える。なお清朝が公認した関帝信仰は、満州を劉備、蒙古を関羽に準えた兄弟結盟を背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった。

南宋初の詞人として辛棄疾・姜夔が挙がる。辛棄疾は金に対する主戦論者で、そのため官僚としては不遇であった。その憂国の志を詠んだ詞が多く、周邦彦とは異なり率直な表現が特徴。その詞は蘇軾と通じるものがあり、蘇軾と共に豪放派の代表とされ、蘇軾と並んで蘇辛と称される。これに対して姜夔は周邦彦の流れを汲んだ典雅な詞風が特徴である。姜夔は生涯官途に付くことは無かったが、その文名により多数の高級官僚と親交を持っていた。その生涯とその詩風は孤高という点で通じ「清空」と評される、

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